2014年11月11日火曜日

天国を地にもたらす − ビル・ジョンソン

シッド・ロスのIt’s Supernaturalから抜粋
ゲスト:ビル・ジョンソン

シッド:今日の番組のゲストであるビル•ジョンソン師は、数多くの奇跡を行っておられます。ある日彼は「御国が来ます様に、御心が天で行われる様に地でも行われますように」という聖書箇所を読んでいました。そして「天には病気はない、恐れもない、貧困もない」と考えました。そしてこれこそが、私たちが天にいるように地上で歩むことができる鍵であると彼は思ったのです。これは非常に深くて素晴らしい真理ですね。皆さん、今日彼の話を聞くだけではなく、天が地に侵入してくるのを見る準備をしてください。ビルさん、「心の一新 renewing your mind」ということが一つの鍵だということですが、それはどういうことでしょうか?

ビル:一新された心とは、キリストの心のことです。実際に神の視点で物事を見ることです。主は物事を私たちとは違うように捉えます。少しのパンと魚だけで大勢の人を養う必要が生じたときも、どうしようかとドキドキはされませんでした。主は別の視点を持たれ、この奇跡を見ることによって弟子達もご自分と同じ視点をもつことを願われたのです。主は「見えないのですか? わからないのですか?」と問われました。主が食べ物を何倍にもした直後に、パンを持ってこなかったことを心配している弟子達に向かって主はそう訊かれたのです。弟子達はまだ「地上から天を見上げる」という視点に留まっていました。ほとんどのクリスチャンは、地から天を見上げて、神が自分の問題に介入してくださるのを望み嘆願しています。一新された心は、天から地にむかって生きるのです。

シッド:もし今教えていること、あなたがクリスチャンになったばかりのときに理解していたならば、あなたのミニストリーは違っていたでしょうか?

ビル:まったく違うものになったと思います。まず第一に、神は慈しみ深い方であり、本当に善き父であられるということが神学の基礎になります。神はみなしごの地球のために御子を送ってくださった愛情深い父です。神が親切で愛がある完全な父であることをあなたが理解する時、突然すべてのことが変わるのです。あなたが神をどう見るか、自分をどう見るか、あなたの過去をどう見るか、あなたの可能性をどう見るか、ということがすべて変わるのです。全き愛を持つ完全な父がいることがわかるとき、すべての事がシフトし変わります。それは「自分がしたいようにしてもいいんだ」ということではなく、神を一番喜ばせることをしたいという情熱を持つことです。その情熱は神がどのような方であるかを理解するところから生じるものです。一新された心の第一の変化は、神をどのように見るかが変わることです。

シッド:一つの例で説明してください。ある人があなたの所に来て、「腰が痛いのです。」と言ったとします。その時、あなたの心の中ではどのようなプロセスがあるのですか? 何をするのですか?


ビル:イエスは彼のところに来た人たちをすべて癒されましたし、御父が示された人はすべて癒されました。イエス•キリストが完全な神学であると私は信じますので、あたかもイエスが私の立場におられるかのようにその人に仕えるというのが常に私のアプローチです。イエスだったら起こったに違いにない癒しが時には起こらない事もありますが、私は自分の経験のレベルでもって期待の基準を下げたり、聖書の基準を下げたりはしません。

シッド:では、もし腰の悪い人が10人続けてあなたの所に来て、10人とも癒されなかったとしたら、あなたはどう感じますか? あなたの心の中で何が起こるでしょうか?

ビル:もし同じ問題を持つ人が10人来て、一つも癒しが起こらなかったならば、それは私にとっては、神の御前で一人になり、ブレークスルーを叫び求めなさいという招きです。それは私が神を説得するということではありません。それは私が神と出会うプロセスであり、それによって私は変えられ、多くの場合は私に力を与え、私を備え、神が私の前におかれる問題に対処できるように私を調えてくれるものです。

シッド:わかりました。あなたはイエスが言われた「御国が来ますように、御心が天で行われるように地でも行われますように」という御ことばをよく話されますね。これは非常に重大なステートメントですが、あなたはそのように生きておられるのですか?

ビル:はい、そうです。私はいつもそのように努めています。私の人生はただそれだけであり、それが駄目なら次はこれ、というようなプランBはありません。イエスはご自身がどのように生きられたかという明確な見本を示してくださいましたし、私たちが何をするべきかというはっきりした任務も与えてくださいました。それは即ち、地上のすべての状況の中で、主が統治しておられることを事実として現すことです。それが、私が情熱をもってしていることです。

シッド:あなたの学校では、学生たちは3回失敗するように義務づけられているそうですね。3回成功するのではなく失敗ですね。どうしてですか?

ビル:喩えでお話しましょう。以前私はスチールヘッドという魚(マスの種類)がとれる場所に住んでいましたが、ある日釣りの達人が釣りに連れていってくれました。そして「釣り針とか錘が川底に時々引っかかって取られてしまうほど深いところ迄下ろさないと魚は釣れないよ。」と教えてくれました。私のミニストリーに対するアプローチは、時として失敗するくらいのリスクを伴う生き方をするということです。もし安全なことばかりしていたら、周りの人たちは私を賢いというかもしれませんが、私は決して山を動かすことはないでしょう。
ですから、学生に居心地のよいところに留まるのではなく、思い切って(失敗するかもしれないという)リスクを侵しなさい、新しい領域に踏み出しなさい、という課題を出すのです。失敗といってもそれは勿論、道徳的に間違いを犯すということではありません。ミニストリーをするときに、神がその時に何を言っておられるかを感じ取って、知識の言葉や励ましの言葉を失敗を恐れずに勇気を出して言ってみるということです。学生たちが主に用いられるように成長し、リスクを取ることを学んでほしいのです。それで失敗することを必須にしているのです。

シッド:食道癌だった女性の方に起こったことを話してください。

ビル:ある女の方は食道癌だったのですが、礼拝中に両手をあげてワーシップをしていた時に、両手がとても熱くなるのを感じました。彼女は夫に「癒されたと思う」と告げました。手が熱くなったことと癌が癒されたのを彼女がどうして関連づけたのかは、私にはわかりません。でも彼女はそう感じたのです。彼女は主の臨在を感じ、癒されたと思いました。
医者のところに行って彼女は「癒されたと信じます。」と告げると、医者は「この癌は無くなることはありません。」と言いました。しかし検査の結果、医者は「癌が無くなったばかりか、あなたの食道は全く新しくなっています。」と彼女に告げました。主を崇め敬い、主の善きこと、主の慈しみを賛美し祝っていた霊的雰囲気の中に顕われた主の臨在によって癒しが起こったのです。誰かが信仰の祈りを彼女のためにしたのではありません。臨在の中で起こったのです。

シッド:それが御国では普通に起こることなのですか? 今テレビを見ている主婦でも、高校生でも、幼稚園児でも、誰でもそのように出来るとあなたは言われるのですか?

ビル:ええ勿論、全くその通りです。もし誰かが私に祈ってくださいと言って、私が祈ってもブレークスルーが起こらなかったならば、私はその人に「祈りの出来る5歳の子供のところに行ってみてください。神の御こころは何かなどと、思案しない純真な子供の所に行ってみてください。」と告げます。これは誰にも出来ること、誰でもが参加できることなのです。

シッド:私たちは考え方、物の見方を変えねばならないと言う事でしょうか。説明してください。

ビル:確かに私たちは変わる必要がありますが、それは訓練によってではありません。神との出会いによって起こるのです。神と出会う時に、私のまわりの世の中を見る、私の見方そのものが変えられる機会が与えられます。もし私の見方が変えられなければ、いつまでも同じで、神に「解決してください」と懇願するだけになってしまいます。しかし私の見方が変えられた時には、私が問題を解決するために遣わされた神の代理人として、その権威によって問題を解決することができるのです。

シッド:精神科医はよく否定的に生きる人のことを話ますが、ビルさんは否定的に生きることを勧めておられます。それはどういうことでしょうか?

ビル:それは言葉の遊びと言うべきですが、悪魔が私に何かを要求してくるとき、私は「その要求は拒否する」と言う意味です。それが私の言うところの否定的に生きるということです。私は悪魔が物事を見る視点とその影響の何もかもすべてを否定します。悪魔が存在することは否定しませんが、彼が影響を与えることを否定するのです。

シッド:わかりました。それでは、あなたが用いる宣言の例を挙げてください。

ビル:神の御国では何事も宣言・宣告なくしては何も起こらないと私たちは信じています。ですから私たちは神の御心 the heart of the mind of God そのものを神からの「法令布告」decree(あるいは「判決」)として宣告するのです。時にはそのように宣告しただけで物事が変わっていきます。例えば「これは私の人生に対する神の目的や計画ではない。私は拒絶する。退きなさい。」という宣告です。そのようなシンプルな宣告・宣言で解決することもあります。もっととりなしの祈りが必要なときもあります。又、ワーシップに導かれる時もあります。時には、問題の大きさにとらわれないで、自分の焦点をシフトさせればいいだけの時もあります。

シッド:問題の大きさにとらわれないとすれば、あなたは何に心を集中させるのですか?

ビル:それは神に、です。神の約束に、神の御ことばに、神の私に対する思いに、私と共にある神の臨在に、です。私はそのような思いにだけ心を馳せ、その決意・確信から力を得て、どのようなチャレンジに対しても、自分が主と共に働く同労者であり、主が共にいてくださるという臨在を意識して向かっていきます。私はどのような状況に対しても、聖霊が、とどまる鳩のように私の内に臨在してくださっている確信をいだいてアプローチします。

シッド:交通事故に遭った女の人のことを話してください。片腕が使えなくなった方のことです。

ビル:彼女は同じ町の別の素晴らしい教会に属する人でしたが、その方のお嬢さんがたまたまその日に、教会に行きたいと言ったのですが、その日その教会では集会がなかったので、私たちの教会に来たのでした。私は彼女を知りませんでしたから、あとで聞いた話ですが、彼女は片方の腕を数回手術していました。それでその腕は数インチ短くなり、使えない状態でした。感覚もなく、肘から下は動かすことができず、物を掴むことも持ち上げることもできませんでした。彼女には2歳半の女の子がいましたが、その子を抱き上げることもできませんでした。
礼拝の時、病気の人にために祈る時間を持ちました。彼女の上のお嬢さんが「お母さん、前に行ったら。」と勧めました。彼女は行きたくなかったのですが、とうとうお嬢さんの勧めに応じて、前に出ました。一人の祈り手の婦人が彼女のために祈りました。するとすぐに腕が伸びて元通りになり、その腕が普通に使えるようになりました。私は呼ばれてそこに駆け寄りました。私はその報告を聞いて大喜びで興奮しました。
私がそこにいる時に、小さな女の子が彼女のそばに来ました。彼女が両腕を女の子の方に伸ばすと、その子は「駄目よ、ママ。腕が、腕が。」と言いました。女の子は生まれてから2年半の間ずっと、お母さんは腕の怪我で彼女を抱き上げることはできないのだ、と聞かされて来たのです。その時お母さんは「大丈夫よ、ハニー」と言って彼女を抱き上げました。その時の女の子の笑顔を私は一生忘れないでしょう。お母さんに抱かれるのがその子の心からの願いだったのです。本当に感動的でした。そのような経験をすると、他のいろいろな問題を見る見方が変えられます。

シッド:「神の家」ということをあなたは重要視していますが、どうしてでしょうか?

ビル:私たちは神の家です。私たちは全能の神の住まいです。私たちがその意識をなくし、神の御霊が私たちの上に又、内に、住まわれていることを忘れると、全く違った生き方になります。すべてが変わってしまいます。私たちが、神と共に生活しているという認識をもって毎日を過ごすとき、(それは神学としての知識ではなく、実際に共にいる方、力を与えてくださる方、私たちの方向を示して下さる方、共に働いてくださる方として現実に認識することですが)すべてが変えられていくのです。私が考え、期待するすべてのことが、私の祈り方も含めてすべてが変わります。それは神に「どうか介入して助けてください」と懇願する祈りではないからです。私は既に神と共にいるのですから、その時その時私のまわりに起こる状況に対する神の心と思いを私が察知し、その私を神が用いて、その状況に必要な変化をもたらすこと、すなわち、変えることがすべてです。

シッド:一つ聖句が浮かびました。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。ローマ14:17」この聖句をどう思いますか?
ビル:いくつかの理由で私はこの聖句がとても好きです。その一つは、神の御国は聖霊のうちにあることを教えてくれるからです。すなわち、御国の領域、神が支配する領域とは聖霊の領域の中にあるということです。ですから、実際に御国の実現が、聖霊の臨在の顕われを見出すときに起こるのです。両者が私のために非常にうまく働く理由は、私が神を見出せば見出すほど、神の御こころがわかり、鳩のように私の上に留まり続ける聖霊をもっと意識できるようになるからです。私の人生や集会でそのようなことが起これば起こるほど、その集会での神の目的がはっきり見えるようになります。御国は聖霊の領域にあるからです。

シッド:あなたが「一新された心」をもって祈るとき、どんなことが起こるのですか?

ビル:奇跡がおこります。数週間前に起こった事で、私はこの日曜日に報告を受けたばかりですが、その女性の息子に牛乳とグルテンのアレルギーがあったある母親のことです。その息子は自閉症でもあったのですが、みんなが祈ったのはアレルギーのためでした。彼女は息子のアレルギーが癒されたことを信じて礼拝のあとでピザを食べに行ったのですが、そこで分かったことは息子はアレルギーだけではなく自閉症も癒されていました。

シッド:あなたの友人がモザンビークで経験した奇跡のことを話してください。彼女の前を走っていたバスが事故で横転して死傷者が出たのですね。

ビル:そうです。彼女は医師でしたので、人々をチェックしてまわりました。すると一人の女性が首を折って死んでいました。頭の向きが大きくねじれて異常でした。彼女はそこで、まわりに立っていた怪我をしていない人々を集めて、その死人に向かって「生きよ」と告げなさいと教えました。

シッド:彼らはクリスチャンだったのですか?

ビル:いいえ、そうではありません。しかし医師の彼女は集めた人々に「ずっと命を受けるように言い続けなさいよ。」と言って、自分は怪我人の手当をしていました。すると何か音がするので、見ると、首が折れて死んでいた女性の首がひとりでに回って正しい位置になりました。多くの人が命を語るという霊的環境の中で死んでいた彼女は生き返ったのです。

シッド:神の御国が地上に来たのですね。ビルさん、すべての人のために御国が地上にくるようにどうかお祈りくださいませんか?

ビル:勿論です。主はライフスタイルに変革をもたらすべく色々な人に主との出会いを与えてくださると信じます。そのことを祈りたいと思います。父なる神よ、どうか大いなる聖霊の力を顕わしてください。それによって人々があなたの心の奥底を知り、あなたの臨在を見分け、あなたが持っている人々への情熱を知り、それによって物事の見方、考え方が変わりますように。それによって人々が内側から変革されますように。(終わり)

http://www.banministries.org/?p=2462

2014年10月31日金曜日

奇跡を起こす心構え − ビル・ジョンソン

聖霊があなたに必要なものを授け備える理由は、あなたが「不可能」なことをすることが出来るようになるためです。聖書の中で主は何度もご自分のしもべ達に、「わたしはあなたと共にいる」と言われました。時には「主の御霊が彼らの上に下った」という表現もされています。私は聖書の中にある主が人々を訪れた時の箇所を、全部書き出してリストにしてみたことがありました。そしてそこから興味ある真理を見い出したのです。それは、主が「わたしはあなたと共にいる」と言われたときは、例外なく、その人が自分の力で達成することが不可能な任務を主から与えられた直後である、ということです。
 
神はそのような約束をモーセに与えました。それはエジプトでパロの過酷な支配下にあったイスラエルを、約束の地へと導くという彼の任務と関係していました。同じような言葉がヨシュアにも与えられました。彼は約束の地に入ることを許されなかったモーセの任務を引き継いだのですが、巨人や多くの恐ろしい強敵がいる約束の地へとイスラエルを導き入れる任務が与えられたからです。
同じ約束がギデオンにも与えられました。当時、脆弱で嘲笑されていたイスラエルを、ミデヤン人の強い抑圧から解放する任務が彼に与えられたのです。また、マタイ28章にある大宣教命令の中で、11人の弟子達に同じ約束が与えられました。それは彼らが世界の国々の人たちを弟子にするという任務が与えられたことと関係していました。
神の臨在が約束されているということは、私たちが主から大変重要な任務を受けることを意味しています。即ちそれは、私たちが通常では不可能なことを可能にすることを主が要求される時です。神の臨在という助けが与えられ、それによって私たちが不可能の領域に侵略して不可能を可能に変えることを神が期待しておられるのです。
 
神が私たちと共に臨在されていることがはっきりと示されるときは、常に、私たちが何かの任務を果たすことを期待されています。「聖霊はただ慰め励ますためにだけ私たちと共におられる」と考えるのは大きな誤りです。聖霊が私たちを慰め励ますーそれは確かにそうです。しかしそれだけに留まらず、聖霊は私たちの前にある不可能な任務を可能にするためにいてくださるのです! エペソ1:18−19でパウロが「主の召しによって与えられる望みがどのように偉大な力あるものであるかを私たちがはっきり見えるように」と神に祈っているのは、この事を指しているのではないでしょうか。
 
「神がともにおられたので」
神の永遠の御子であられるイエスに関する聖書箇所で、私が一番愛し、又私にもっとも影響を与えたものは次の使徒行伝10:38です。
「それはナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
この節は福音書全体を通して表されていることを総括しています。即ち、イエスは御自分のもとに来たすべての人を癒し解放しました。病はサタンからきていることも明らかにしています。しかし聖霊がここで一番私たちに理解して欲しかったのは、癒しや解放をイエスがするのを何が可能にしたか、という事でした。それは即ち、「神がともにおられた」からです。イエスは永遠に神であられ、神でなくなることは決してありませんが、聖霊は「神がともにおられた  God was with Him」という言葉を書く様にとルカに霊感を与えたのです。
この記述は、イエスが旧約時代のヒーローたちと同じであったことを私たちに教えています。神がともにおられる時、その人は不可能な領域を侵略するように期待され、又、可能にされているということです。これは、不可能を可能にする神の臨在が私たちの上にあることを見いだしはっきりと認識することによって、神から与えられている任務を私たちが遂行出来るようにしてくれます。
 
時計が10時38分を示しているのを見るとき、私は使徒行伝10:38を思い起こし、その時していることをやめて、心を神に向け、イエスの生涯の中に見られる神の性質と約束の啓示に対して神に感謝を捧げます。面白いことに、この文章を書いている今、携帯で時刻を見ると丁度10時38分でした。主の御名により、主の栄光のために、不可能な領域へ踏み込んで行こうとする多くの人の心の火を燃え立たせるこの聖句を、私は心から感謝します。神は真に私たちと共におられるのですから、それは可能なのです!
 
イエスはご自分のミニストリーを大胆な告知で始められました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、…わたしに油を注がれたのだから。」(ルカ4:18)これはイエスのミニストリーの開始を告げる言葉であると共に、主のミニストリーの本質を表しています。それは人々に解放をもたらすものであり、主の上に神の御霊があった故に可能だったのです。
 
祈り
不可能な領域に踏み込んで行くという私の召しがどれほど栄光に富んだ希望であることかを認識し、そのために主の臨在が私とともにあることをもっと意識して主であるあなたに常に心を向けるように助けてください。また、その任務が、私の力では不可能であることをはっきりわかるようにしてくださり、私が自分の力に決して自信を持つことがないように助けてください。今日私が聖霊の宮とされている不思議と素晴らしにはっきりと気が付き、それによって今日という日が大いなる「打ち破り」の日となりますように。
 
宣言
主の御霊は、イエスの上に臨まれたのと同じ理由と目的をもって、私の上におられます。私は不可能への召しを心にしっかりと受け取ります。それは地上ですべての栄光が神に帰せられるためです。(終わり)

2014年10月13日月曜日

静まること - グラハム・クック

「静まること stillness」は、私たちと天とのコミュニケーションの回線を開きます。私たちは皆、自分の頭のバックグラウンドで聞こえる絶えまないおしゃべりを聞いています。私の友人であるイギリスの心理学者ジム・マクネイシュは、これを「頭の中の雑音

head noise」と呼んでいますが、それは頭の中で聞こえる声であり、私たちの人生に付けられたサウンドトラックのようなものです。それはDVDについている スペシャル機能のように、意識の流れに沿った絶え間ない一方的なおしゃべりで、私たちの人生の一瞬一瞬にコメントをつけるのです。


「静まること」は、どこか静かな場所に行くことではありません。それが助けになることもありますが、そうではなく、それは私たちの頭の中の声を静め 黙らせることなのです。それを静めることはディサプリン(訓練)が必要ですが、それは大変重要なことであり、私たちは絶対にそれをせねばなりません。神が 共にいてくださいますから、あなたには絶対出来ます。


しかし、もし私たちが、静まることなしに、性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、自分の頭の中で最初に聞こえたこの「雑音」を、そのまま「祈り」 にしてしまいます。なぜならば私たちは自分を静まらせていないので、自分の力で祈ってしまい、自分が直面している重荷を背負ったまま、パニック状態で神の 扉の前に行ってしまうからです。私たちはぺちゃくちゃとよく話をし、静まることは非常に稀です。

これは実際のところ、神の話し方とはまるきり正反対です。


神は常に静まっておられ、滅多に話されません。「主が私の内で語られる the Lord speaking in me」ことと、「主が私に語られる the Lord speaking to

me」ことは違います。私たちは「ああ、神が私に語られた。」とよく言います。しかし、それは大抵の場合、私たちの霊の倉庫にすでに蓄えられていた言葉、考え、想い、会話、聖句の中から神が一つ選んで、あなたの意識に中に呼び覚ましてくださったものなのです。

コンピューターのファイルのように、私たちの中にすでに蓄えられていた宝を神は引き出してくださるのです。「ああ、そうだ。確かにうなずける。主が 語っておられるに違いない。」と私たちは考えます。神は長い沈黙の間に、稀に言葉を入れられます。そして神が語られる時、それは大した出来事、大事件で す。神があなたに語られるとき、何かが分与されます。神の深い臨在が顕れます。神が一度語られると全地が創造されたくらいなのですから。


神が語られると、何かが起り、何かが揺れ動き、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られる時、そこには必ず主の臨在のダイナミックな深い余韻が残り、それが「 確かに主が語られた」という証しとなります。


詩編46:10で神はダビデに次にように言われました。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」


この言葉は非常に困難な状況の中にあったダビデに語られ、非常に深い神の臨在をダビデにもたらしました。詩編46は地震の描写で始まり、「静まれ be still」で終っていることは興味深いことです。地震の最中に「静まれ」と語ることが出来るのは神だけです。あなたの人生のすべてが足元から揺らぐ時 も、神だけは「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることが出来るのです。


神を知る知識は、平安と静まることを通して得られます。神は私たちを兵士として霊的戦場に送り出したいのですが、まずその前に私たちが静まることを知らなければ、戦いの中でどうやって平安を見つけることができるでしょうか?

敵に対して持つ私たちの最高の武器は安息です。なぜならば、安息することによって私たちは神の中の秘密の場所に隠れることができるからです。敵は私 たちの想像を越えた憎悪と敵意をもってあなたを憎んでいますが、馬鹿ではありませんから、至聖所(神の臨在の真ん中)にまであなたを追ってはきません。も しそこに踏み込んだら、あなたではなく神ご自身と対面せねばならないことを敵は知っているからです。私たちは敵が来ることのできない私たちの避けどころ、 砦、高き所、隠れ家である神の内に隠れる方法を学ばねばなりません。敵があなたを見つけることが出来ないならば、あなたを傷つけることもできません。神は ご自分の中にあなたのための秘密の場所を備えていてくださるのです。


あなたが神と共に歩きたいと思うならば、パニックに陥る能力を無くさねばなりません。心配する能力も、案ずる能力も失わねばなりません。私たち一人 ひとりのために秘密の隠れ家があるのです。神は愛です。何が起ころうとも、あなたが神の内に住む場所を、神は愛をもって必ず確保しておいてくださっている のです。


神はその場所がどこにあるのかを人びとに教えるのが大好きです。それは、神の子供たちが秘密の場所に入れば、人生を100%エンジョイできるからです。

どんなことが襲ってきたとしても、彼らはそれに立ち向かうことができるのです。

静まることなしには、私たちの神の経験は限られたものとなります。静まることは、主のうちに安息するための先達であり、絶えず神の臨在を体験する人 生へと私たちを導く霊的訓練です。安息すること、静まること、そして神の秘密の場所を知ることこそが、神との途切れることのない交わりをもたらすのであ り、また聖書が「絶え間ない祈りunceasing prayer」と呼んでいるものをもたらすのです。(終り)

http://www.banministries.org/?p=2451

2014年9月20日土曜日

キリストに似る者となる

フランシス・フランジペン(In Christ’s Image より)

今日は、私たちの教会の最も中心的なヴィジョンを話します。それはキリストに似る者となることです。私たちがキリストに似る者とならないならば、教会の目的はなくなります。神は私たちの古い性質を抑制する「宗教」を与えてくださったのではなく、私たちに新しい性質をくださったのです。新しい命、即ちキリストの命そのものをくださったのです。パウロはガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言っています。イエス・キリストがあなたのうちに生きておられるかどうか、吟味してみてください。教会におけるすべての訓練(活動、ヴィジョン、適応、学びなど)の目的は、キリストを私たちのうちに解き放つことによりキリストが私たちを通して生きることにあるのです。私たちがどのくらいキリストの霊をこの世に解き放つか、自分の動機、自分の思い、自分の信仰をどれだけキリストに明け渡すか、そして私たちがどれほどキリストに似る者になるか、が教会の成功度のバロメーターなのです。人数ではありません。何人がキリストに似る者となるかが、教会の成功を測るポイントです。

真のリバイバルの証は、人々が倒れるとか、飛びはねるとか、転げ回るとかではありません。教会の建物を出たときあなたがどのくらいキリストに似る者になっているか、なのです。それによってあなたがリバイブされたかどうかがわかります。リバイブ(生き返る)するのは、あなたの中のキリストの命だからです。キリストが私たちの命なのです!キリストを顕すこと、すべてをキリストに明け渡すという唯一のゴールにフォーカスすること、それこそが人生の他のすべてのゴールをも達成させる道です。パウロがピリピ3章に書いていますが、この箇所は私の聖書では「人生のゴール」という見出しがついています。そしてそれは、「イエスを知りイエスに似る者となることである」とパウロは言っています。彼は信仰生活を始めたとき、多くの教会を設立しようと計画したわけではありません。新約聖書の三分のニを書くつもりもありませんでした。使徒になる計画もありませんでした。彼の唯一つのパッションは、「イエスを知ること」でした。

(彼はピリピ3:2で犬に気をつけるように警告しています。悪い働き人、肉体だけの割礼の者に気をつけるように言っています。一世紀の犬は今のように可愛いペットではなく、ゴミ捨て場をうろつく動物でした。エルサレムの12の門の一つはゴミの門で、その門の外はゲヘナと呼ばれゴミが燃やされていました。犬はそのゴミをあさって生きていたのです。教会にもゴミばかりあさっているクリスチャンがいます。何か悪いことがないかといつも鼻をぴくぴくさせているのです。腐敗したことはないか、不完全なものはないか、何か失敗した者はいないかといつも嗅ぎまわり、それを食べて生きているのです。そのようなクリスチャンには、どうかならないでください。神はあなたのためにもっと良いものを備えていてくださるのです。)

ここでパウロは「宗教」ではなく、キリストとの真の関係について話しています。
彼は自分の経歴を述べ始めます。「自分はパリサイ人の中のパリサイ人、ベンジャミン族の出、律法に熱心で非難されるところはなかった...」と自分の血筋の良さを書き並べたあと、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」と言っています。この「イエスを知りたい!」というパウロの情熱こそが、彼が「神からの約束」を得る推進力となったのです。もしあなたがイエスを知る情熱をもたず、キリストに似た者になることもせず、神からの約束の成就だけを願うならば、それはなかなか成就しません。キリストに似た者になることを人生の最大の目的とすることが必要なのです。

この教会はただ「人々」を求めているのではなく、「弟子」を求めているのです。
「弟子は師以上には出られません。しかし、十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)」とイエスは言われました。私たち弟子は、師であるイエス・キリストのようになれるのです。これがこの教会のゴールです。イエスを知ること、イエスのようになること、そのための情熱を持つこと、それが今日の話のテーマです。それはあなたが生きているこの世界でキリストのようになることであって、次の世に於いてではありません。次の世ではすべての人が完全にされますから、それは難しくありません。でも神は今ここで私たちがキリストに似る者となることを意図されているのです。即ち、あなたの仕事場でキリストのようなること、あなたが住んでいる町でキリストのようになることです。もし私たちがそれを目指して進むならば、神の約束がそれに添えて成就されるのを私たちは見るのです。私たちは神の約束を得ようと進んでいても、なかなかそこに到達出来ないと感じます。それは私たちが「神の約束は他のことと関係なく独立して存在し、成就するものだ」と勘違いしているからです。そうではなく、神の約束は私たちがイエスとの縦の関係を確立するとき、私たちの心がキリストを知ることを愛しキリスに似る者となりたいと情熱を持って進むときに、その「結果」として、神の選ばれた時に成就されるものです。

世界の国々のことを考えてみましょう。彼らが救われることを私たちは願います。すべてのものは膝をかがめ、すべての口が「イエスは主である」と告白して神を誉め称える時が必ず来るのです。イスラム教国であっても、共産国であっても、ヒンズー教国であっても、ある時にすべての人が「イエスは主である」と告白するのであり、それが真理でありリアリティーなのです。(拍手)現在と、それが成就するまでの間の期間に、教会はどんどんと今までになかったほどキリストに似る者となるのです。この約束が成就されるために、私たちはキリストに似る者にならねばなりません。第二コリント1:20でパウロは「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰すのです。」と言っています。「ことごとく」とは、神がイスラエルにした約束、異邦人にした約束、イエスによってもたらされた約束、神があなたにされたすべての約束、これらすべての約束のことです。健全な結婚、子供たちの救い、繁栄、健康など、すべてあなたが神からの約束と信じるものは、「この方において『しかり。』In
Him(Jesus) are Yes
」となったのです。もしあなたが約束の成就に到達したいと願うならば、まずイエスにある成就に到達せねばならないのです。イエスにあって成就すること、即ち私たちを通してイエスが顕されることが、二番目の祝福の扉、即ち神の約束の成就の扉を開けることになるのです。

人々はあまりにも多くの場合、焦点を間違えてしまいます。例えば、「繁栄」ということに焦点を当てます。「神は私を繁栄させてくださる。私が蒔けばそれは何倍にもなって返ってくる、と聖書は約束している。」と言います。でもその人はやがて破産してしまいます。どうしてでしょうか。その人は「信仰」をもって行ったのではないのですか?
聖書の法則に従って行動したのではないのですか?
違うのです。そのような約束はそれが独立して成就するのではなく、イエスにおいて成就するのです。私たちの人生の中心にイエスがおられるならば、主は光と力を与え、すべてのものをあるべき姿にしてくださり、二義的な約束をも成就してくださいます。
「イエスにおいて」「神の約束は」「ことごとく」「しかり(Yes)」なのです。考えてみてください。すごいことではないでしょうか。

あなたはあなたの結婚が、仕事が、家族の救いが、その他すべてのことが巧くいくことを願っています。神はそのすべてをイエスにおいて「Yes!」だと言われるのです。喜びの叫びをあげようではありませんか!
御父は御子をそれほど愛されているのです。イエスはそれほど私たちのために代価を払われたのです。天の銀行にある約束を引き出すためには、私たちは「イエスにおいて
in Him」生きねばなりません。イエスの御ことば、命があなたの命となって、神があなたの内側を変えてくださることによって、栄光から栄光へとあなたを内から外へと変革してくださるのです。イエスに焦点を当ててください。

イエスを顕すこと、そのことにために私たちは存在し、創造されたのです。もし、あなたがこのことを真剣に求めるとしましょう。あなたが今、「私はイエスに似る者となりたいです。」と神に申し上げるとします。あなたが女性とか男性とかは関係ありません。イエスがあなたに新しい性質、徳性を与えてくださるのです。あなたが若くても年寄りでも、男性でも女性でも、あなたを通してイエスの力、聖さ、柔和さ、愛、信仰、徳が顕れ出るのです。

これを真剣に願う人がいますか? 「主よ、私はそれを求めます。」と言いますか?
そのような人にはある事が起ります。主はあなたを「イエスのようでなければならない状況」に導かれます。
「主よ、私はあなたのようになりたいです。嵐の中でのあなたのようになりたいです、でも嵐はやめてください。」「私はあなたのように人を愛したいです。すでにあなたのように愛の人となった人たちを。」「わたしは水の上を歩きたいです。一月のアイオワで。」一月のアイオワは凍っていますから、誰でも歩けますね。7月に歩けたら進歩ですね。(笑)

私たちのゴールはイエスのようになることです。あなたがそのことを真剣に望むならば、そしてあなたの中でイエスのようでないところが一つずつ減っていくならば、何かが起り始めます。前もって警告しておきますよ。戦いが始るのです。「私はイエスのようになりたいと言いました。教会という安全な場所でね。牧師が『イエスのようになりたい人はいますか?』と聞いたので、『はい。』と言ったんですよ。でも教会を出た途端、ひどいことが沢山起こりました。」とあなたは言うかもしれません。でもひどいことが起るのはすばらしい事なのです。それはあなたが前進している証拠なのです。あなたは「私はそんな風に前進などしたくありません。私は安らかにまどろんでいたいんです。」と言われますか?

何かが起り始めるのです。もしあなたが真剣ならば、主はあなたが立ち上がってキリストに似る者になるのを阻止しようとするものとの戦いに勝利できるように油注いでくださるのです。この戦いは神の御こころによって戦略的であり、計画、計算されていて、教会という安全な場所でまず調えられたあなたが、厳しい外の世界に出て行って勝利するように神が備えてくださったものなのです。そこで私たちはイエスのようになるプロセスを拡張していくことができるのです。教会の建物を出てからが実際の生活の場におけるリアルな訓練です。

あなたは将来の伴侶を求めているかもしれません。それは誰だか教えましょう。それはイエスです。「そういうことではなく、本当の誰かを望んでいるのですが….」と言われるかもしれませんね。でも、まずイエスと親しい関係になることがよい伴侶を見つける道です。幸せな結婚がしたい、よい家庭を作りたい、というあなたの願いは、まずイエスとよい関係を結ぶことから始るのです。主はあなたに最良の結婚を与えてくださいます。あなたがまわりのものに目を奪われることなく、まずイエスを目指して進むからです。

出エジプト1:11を見てください。「そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。」とありますね。12節には「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、」とあります。これが主のやり方です。あなたがある戦いで苦しめば苦しむほど、キリストがあなたの人生にふえ広がるのです。イエスがあなたの魂にふえ広がれば広がるほど、あなたはキリストに似た者とされるのです。

私たちには少しばかりの苦難、少しばかりの戦いが必要なのです。小説でも「葛藤がない話は退屈」でしょう?
私たちの中には「退屈な筋書き」の人生を送っている者があるのではないでしょうか。でも大丈夫です。あなたがキリストに似る者になりたいと真剣になったときには、主は必ず葛藤、戦いを送ってくださいます。主はあなたがキリストのようにならねばならない状況の中に置いてくださいます。キリストに似る者になればなるほど、神の約束はあなたの傍に引寄せられてきます。神はあなたの心の願いを与えてくださるようになります。戦いの中にあってもあなたが主を喜ぶとき、あなたが聖なる手をあげて祈るとき、神に愛を捧げるとき、生け贄を喜んで捧げるとき、神は祝福を与えてくださるのです。神の力があなた近づいてきます。あなたがキリストに近づくからなのです。私たちの教会のDNAは、イエスに従う者です。イエスのように変えられる者です。今日、私たちは神からイエスのようになるチャンスと力を頂いているのです。特権です。

質問します。あなたは他の誰かでその人のようになりたいと思う人がありますか? 考えてみてください。政治家ですか? 映画俳優ですか?
私はイエスのようになりたいです。あなたもそう思われるならば、あなたはその決心をせねばなりません。「主よ、これが私の生き方です、私はこのために生まれました。」と。イエスのようになること以外は、すべて死の世界なのです。私たちの魂のすべてがイエスにむかって「Yes!」というならば、キリストの御性質が増え広がっていくのです。すべての人が心からこの決断をすることが、私の願いです。「私はイエスに倣う者になりたいです。今までそれ以下のことを神としていたことを悔い改めます。」と。

イエスを離れて私たちは何もできないのです。徳を高めることも、力を得ることも、神の約束を手に入れることもできません。ある人は他の人がしていることを真似てそれらを得ようとします。しかしイエスを内に持たないではそれは不可能です。朝イエスと共に目をさまし、夜イエスと共に床につく、私の潜在意識までもがイエスの思いで一杯になるように、私の目が健全でからだ全体が少しも暗いところがなく明るいようにと願います。

祈りましょう。「父よ、私たち一人ひとりが、イエスのようになることに熱心になりますように。私たちの人生のすべての面をあなたが取り仕切ってくださいますように。父よ、私たちがイエスに似る者となることをお願いいたします。キリストのような心の態度で回りにいるすべての人に接することができますように。自分はいつもそうではないことを告白いたします。あなたや私の心を満足させるような態度ではないことを告白いたします。キリストのような心をすべての面において与えてください。父よ、私たちがイエスを顕す者となれますように。アーメン」(終)

http://www.banministries.org/?p=2417

2014年9月19日金曜日

主の栄光を見上げつつ主と同じ姿に変えられる

坂 達也 

最近主から特に強く示されている御言葉があります。それは2コリント3:18です。但し、日本語訳の新改訳と新共同訳では一番重要なことが抜けている点を先ず指摘致します。それはどちらの訳も「鏡のように主の栄光を反映させながら」(新改訳)、あるいは「鏡のように主の栄光を映し出しながら」(新共同訳)と訳してはいますが、肝心な「見上げる、見る」
Beholding as in a mirror the glory of the Lord という言葉が抜けています。

そこで口語訳を見てみますと、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(二コリント3:18 口語訳)となっており、「見つつ」が適切に訳されています。
このみ言葉が今の最後の時代にいかに大切であるかということを今回は強調させていただきます。

なぜなら、ヨハネ17:22-24に「22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。・・・・・24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったもの(私たちクリスチャン)をわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが(いつも)見るようになるためです。」と書かれているからです。

上記から分かることは、第一に私たちは既に主の栄光を与えられていることです。すなわち、私たちは霊的には神の御子と同質であるのです。そして、主の栄光の力とは、ものすごい超能力の力であることを真に理解し確信し、納得する必要があります。それによって、私たちは今、その力を信仰で行使する時代に入ったのです。

次に、主が父に願ってそれが許されているように、私たちは今既に天の御座に主と共に座っているという事実をはっきり認識することが、今の私たちにとって最も重要なことの一つであるからです。主の栄光が与えられていなければ、私たちは主と共に父の右座に座ってなどおられません。私たちに主の栄光が与えられているということは、私たちはすること、なすことすべて主と同じになれると言うことであり、信仰でそうならなければならないのです。
言ってみれば、私たちには既に住まいとしてこの上ないすばらしいセカンドハウスを持っているのです。皆さんは、その天の別荘をいつも訪ねて主と共に過ごす時を楽しんでおられるでしょうか。私たちクリスチャンのそれぞれが「主の住まい」であるならば。主の天の住まいは私たちにとっての「住まい」であるはずです。
その天の住まいに行くことが、すなわち、私たちが「主を見上げ、見つめ、御顔を拝する」ことでなくて何でしょうか。それだけではありません。最近は霊の身体で天に行った人や、時々行ったり来たりしている人は意外に多いようですよ。

私たちが主の栄光を既にいただいているのなら、この世にない超自然のパワーを既にいただいていて、例えば、この三次元+時間の世界における「距離」は超越できるのです。ピリポが一瞬にして別の町に移されたように、私たちは天に瞬時に行ったり、あるいは地上で一瞬にしてある地点からある地点に移動できるのです。イエスが水の上を歩いて来て弟子たちの小船に乗り込んだら、あっという間に向こう岸の目的地に着いた―イエスが用いたその力が私たちにも使えます。

モーセはホレブの山で、水も飲まない40日断食を二回も続け、昼夜主を見上げて過ごしました。彼ほど主を見上げて時を過ごした人はいないと思います。そのモーセの顔は主の栄光が反射して輝いていました。まさに2コリント3:18に書いてある通りです。ですからこそ、モーセは内から変えられ(トランスフォームされ)何にでも耐えられるような、完全に自分に死んで主に100%仕える超人になったと思います。私たちもそうならねばなりません。そのためには主をもっともっと見上げればよいのです。

主に似た者になる

私たちの最終目標は「主に似た者になる」ことです。ところで、この主に似た者になるという言葉ほど曖昧で、誤解を招く言葉は他にないと思います。「似た者」とは「どれだけ似れば」よいのですか―恐らく宗教的な人たちは、私たち人間が全くキリストのような人になることはできない、そうなれると口にすることすら神への冒涜、不遜であると言うかもしれません。
しかし、上記の聖書に何と書いてありますか。「父と子、と私たちが一つとなる」ことが書かれています。一つとなると言うことは完全に同質、同じものが一体となることではないでしょうか。それには父と子は同質・完全一致であっても、私たちは多少でも、いやかなり「似てさえいればよい」のでしょうか。そうではないと思います。全く同じものにならなければならないと思いませんか。

そんなこと不可能だと思わないで下さい。確かに人間の力では不可能でしょう。しかし全知全能の神に不可能はありません。聖霊が私たちをそのように変えて下さると言うのですから、それに逆らわずに素直に信仰で信じれば、そうなれると主が言われるのです。
この2コリント3:18で「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と書かれている部分は英語で to the same image of
the Lord で imageのギリシャ語はstrong #1504 eikonです。この場合、特にキリストと「同じイメージ」と言うのは
「似ている」というより 「全く同一」という意味のようです。

さて最後にもう一つ次の聖句をご覧下さい。
1ヨハネ4:15 「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日(これから来る終末の時代)にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」

最後の下線部分の英語は because as he is, so are we in this life.です。ここでも私たちがキリストの在り姿と私たち一人ひとりの在るべき姿が全く同じであることを主は期待しておられることが分かります。しかもそれが「この世にあって」の話であることにご留意下さい。

以上のことから明らかなことは、私たちが主を心から愛をもって見上げる時、あるいは、御顔を拝することによって、私たちの内的な資質が主と同じ資質に変えられるということです。そうであれば、後は私たちがどれ程真剣に、熱烈なパッションを持って主を見上げ、追い求めるかに掛かっています。
ついては、主が一つだけ嫌われることがあります。それは、なまぬるい者、なまけ者は、主が口から吐き出したくなる程嫌われることです。

私たちは心から「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とパウロが言うように、主を益々愛し、賛美しつつ、毎日出来るだけ多くの時間を「主を見上げて、見つめる」ことに費やそうではありませんか。(終り)

2014年9月12日

2014年5月27日火曜日

わたしのものを返しなさい - グラハム・クック

私はドリーマーで、毎晩のように夢を見ます。夢の中で私は神に会うのです。神は夢や幻を通して私たちに語ってくださる方ですね。時として私は夢の中で変えられていき、夢から覚めたときには変革されていることさえあります。そしてそれは私にとってすばらしい祝福となります。

私はある夢をシリーズとして毎晩のように見ました。その夢は私が天国の丘の上のテントの中で布地をはった木の洒落た椅子に座っているところからいつも始まります。私の前にはすばらしい食卓が用意されていて、椅子は座り心地がよく、暖かく気持よいそよ風が吹いているすばらしい場所でした。私はそこでイエスと会っていろいろな話をするのです。主はいつも私に会いに丘を登ってこられるのですが、必ず数百人もの大勢の人たちを連れてこられます。子供からおばあさんまでのいろんな人たちが主の回りを踊りながら一緒に登ってくるのです。そしてこれは主にしか出来ないことですが、主は何十人という人と同時に会話をしながら来られます。主は本当にうれしそうな様子でした。人々も主を喜び主と共にいることを楽しんでいました。やがて主は私を見あげ、「直ぐ行くからね。」という合図をされます。そして私のそばに来て座られるのです。主と私は話し始めるのですが、あるときは一日中、あるときは数日に話すのです。私は夢の途中で目を覚ますと、それを何時間もかかって書きとめます。私が集会でお話しすることの多くはそのノートから来ているのです。神はそのような出会いを愛しておられます。神のなさることは何によっても制約されることはないのです。どのような方法でもお用いになれるのです。

ある時のこと、夢の中で私はいつものように丘の上に座って主を待っていました。主が登って来られるのが見えましたが、不思議なことにお一人でした。微笑んでもおられません。行進するようにどんどん登ってこられます。その様子を見て私は、「私は何か悪いことをしたのだろうか?」と思いました。主は私のいるテントの中に入ってこられ、ぐっと私を睨みつけられました。

「グラハム、わたしのものを返してくれ!」と主は言われました。
「すみません、主よ、何のことかわかりません。どういう意味ですか?」と私は困惑して訊ねました。
「グラハム、わたしのものを返してくれ!」
「何のことでしょうか。私が持っているものは全部主がくださったものです。」
「わたしはあなたにそれを上げてはいない。わたしのものだ、返してくれ!」
「主よ、おっしゃることがわかりません...」
「ぐずぐずしないで早くしてくれ、わたしのものを返しなさい!」
私は殆ど泣きそうになって言いました。「主よ、何のことでしょうか?」
主は言われました。「その悩み、その恐れ、その心配、その苦々しさ、その怒りのことだ。わたしはそのために死んだのだ。わたしはその代価を払った。だからそれはわたしのものだ。わたしのものを返してくれ!!」

私は泣きながらくずおれて、「ああ、主よ、何ということでしょう。何ということでしょう。」と何度もつぶやきました。 心配したり、怒ったり、恐れたりしたときのことを私は全部思い出しました。目の前に見ることができました。「主よ、赦してください、ごめんなさい、本当にごめんなさい。わかりました。わかりました。それはみんなあなたのものですね。私のものではありませんでした。私が持つべきものではありませんでした。」

主を見上げると、主はにっこり笑われました。改めて今一度救いを得たような感じでした。主は笑って私を抱き上げ、私の両頬にキスをしてくださいました。そして私の目をじっと見て「息子よ、もしあなたがこれらの物を又わたしから取り返し続けるならば、あなたはわたしが望むような人には決してなれないのです。『わたしの前に置かれた喜び』とはこれなのです。わたしが十字架につくことによって、あなたを痛めつけているすべてのものを拭い去ることができる、あなたの人生のすべての負の部分を取り去ることができる、あなたが心配したり、あせったりする 可能性をすべて取り去ることができる、という喜びを知っていたということなのです。

あなたは最早、恐れたり、怒ったり、心配したりする必要は一つもありません。わたしはこれらすべてのことをあなたから取り去ることができるのです。あなたは二度とそのようなことを経験しなくてもいいのです。わたしはそのようなものの考え方、見方、話し方、生き方から完全にあなたを解放します。わたしはそれを可能にすることを本当に喜んだのです。それ故にわたしは十字架について死ぬことを心から喜んだのです。十字架の上で考えていたのはそのことです。わたしは御父と切り離されることほどの恐ろしいことは経験したことはありませんでした。しかしあなたが御父から切り離されることは今後絶対にないことを知っていたので、わたしは十字架についたのです。そしてわたしはあなたから、心配、焦り、恐れ、すべての否定的思いを抱く力を取り去ったのです。グラハム、わたしのものを返してください。あなたの持ち物ではないのです。あなたは持つことができないのです。わたしのものです。返しなさい。もしわたしに返すならば、そしてそのライフスタイルを止めるならば、わたしはあなたが成長する度合いを加速させます。」と主は言われました。

平安があなたの成長を加速させるのを知っていますか? 喜びもそうです。だから、あなたはすべてのことに喜びを見出すべきなのです。そうすればあなたはもっと早く成長するからです。愛も成長を加速させるものです。あなたが受け入れられ愛されていることを知ると、あなたの中の何かが変ります。その時、あなたはもしかして生まれてはじめてリラックスできるのです。あなたは自分に価値があることを証明する必要がないからです。あまりうまくやれていないと思うときも、価値がない者のように生きる必要はないのです。あなたは自分が受け入れられていて、愛されていることを知っているからです。

もしこれが真理ならば、あなたが一番愚かでまぬけな日にも真理でなければなりません。その日のために用意された真理だからです。主の慈しみはあなたの最悪の日のために用意されているのです。あなたの最高の日のためではありません。神はあなたのすべての必要を、それがどんなことであっても、キリストにあって満たしてくださる方なのです。恵みとは、あなたに力を与える神の臨在です。それによってあなたは、神があなたを見たときにあなたの中に見てくださる人物へと成長できるのです。神があなたをご覧になるまなざしは、あなたに自分自身を好もしい、愛しい、と思わせるものなのです。(終)

2014年4月29日火曜日

鳩のような聖霊 - ビル・ジョンソン

ビル・ジョンソン

イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときのことを、マルコ福音書は「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』」と記していますが、そこには私たちが目を留めるべきことが表されています。

私たちはしばしば、天が開くようにと祈ります。それはよい祈りです。イザヤ64:1にあるように「天を引き裂いて降りて来てください」と祈ります。私たちは主に餓え渇いているからです。私たちは町や国の上の天が開かれるように祈ります。それは大切な祈りです。

私たちは往々にして、何を自分はすでに持っているのか、何をすでに与えられているのかを知らずに暮らしていて、どうかそれを下さいと神に祈ります。しかし、すでに持っているものを祈り求めるとき、その祈りが答えられるときの喜びを私たちは得ることができません。なぜならばその祈りはすでに答えられているからです。

私たちの祈りは、それが答えられてブレークスルーが起こることによって、クリスチャン生活がいつも喜びにあふれるようにと、 神がデザインされたものです。イエスは「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。...求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。

もしブレークスルーがなくて喜びが得られないとき、私たちは祈りを一生懸命することから喜びを得なければならなくなります。祈りから喜びを得ようとし始めるとき、私たちは実体ではなく形、形式を尊ぶことになります。ここから「宗教」が形成され始めるのです。ここでいう宗教とは、力のない形式のことです。私たちは 満足感、充足感を様々な宗教的活動を長時間することから得ようとし、それによって自分は主を愛し主に仕えていると思い込むのです。
しかし、イエスが意図されたのは、「わたしたちが父にお願いすれば 、それによってあなたの喜びが満ち満ちるように、父はそれをかなえてくださる」ということです。喜びは途方もなく偉大な天の宝であり、そのすばらしさは私たちには到底理解できないほどです。父がその喜びをイエスが十字架の苦しみに耐えることへの報酬として取っておかれたように、極めて貴重で希少価値のあるものです。「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び...」とあります。喜びは苦しみに対する 報酬で、イエスの従順に対して父が与えたものであり、極めて高い価値のあるものです。聖書には、あなたが祈りの結果として得るブレークスルーこそが、あなたに満ち満ちた喜びを与える絶えざる源であると言っているのです。

問題は、私たちがすでに持っているものを祈り求め続けていることです。 すでに得ていることを知らずに、そのことを祈り続けるならば、私たちは決してブレークスルーを経験することが出来ず、魂の高揚も喜びも経験できないのです。これは些細な問題ではありません。「主よ、今日私たちとどうか共にいてください。」という祈りを私たちは何回するでしょうか。主は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを見捨てない」と言われたではありませんか。ですから、主はこの私たちの祈りに答えることはできないのです。実際、私たちがしているのは、主の約束に対して挑戦していることになるのです。これは問題です。私たちの心と思いが、神が宣言されたことに対して戦いを挑んでいるのです。主は「わたしは決してあなたを離れず、見捨てない」と言っておられるからです。

主がバプテスマを受けて水からあがられたとき、天が裂けたと書かれています。これは原語では神が天をバリバリと切り裂いたという意味です。そして聖霊が降りてこられました。イザヤ64は「天を裂いて降りてきてください!」と言っています。イエスのバプテスマの時起こったことは、天が切り裂かれて聖霊が降りて来て、そこに開かれた天が造られたのです。ほとんどのクリスチャンにとって「閉ざされた天」は、その人の耳と耳との間にあるのです。人が自分の思考パターンで信じる通りに物事を起こすことを、神は暗やみの権力に許可しているのです。聖霊はあなたの中に住んでおられますね。聖書には「父は私たちの内にいる聖霊を妬むほど愛しておられる」とあります。父は天を切り裂いてくださいました。天の父とあなたの内なる聖霊との交わりを阻止するのは一体何でしょうか。どのような領域の悪魔の力もその交わりを切り離すほどの力はありません。ですからあなたはすでに開かれた天の下で生きているのです。

私たちは都市の上の天が開かれるのを願っています。しかし私たちが忠実に私たちの上に開かれた天の下で信仰を実践し権威をもって歩むならば、私の上に開かれた天は広がり続けるのです。あなたが部屋に入っていくならば、部屋全体の霊的空気が変るのです。私は「自分は神の息子だ、娘だ」と言って自分の事ばかり考えている信者を作りたいのではありません。聖霊はすべて信じる者の内におられます。しかしながら聖霊はすべての信者の上にとどまっているのではありません。ヨハネ福音者ではイエスがバプテスマを受けられた時「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私はみました。」と書かれています。

これは非常に意味深い記述です。鳩というのはとても繊細であり、少しでも驚かせると飛び立っていきます。もし私の肩に鳩がとまっていたとして、それが飛び立たないようにしたいならば、私は階段を降りるときどのようにするでしょうか。つねに鳩のことを考えながら細心の注意を払って降ります。聖霊はすべての信者の中に永遠におられますが、すべての信者の上にいつもとどまってはおられません。信者の目標は、つねに聖霊の臨在をもてなし、自分の上にとどまっていただくことであり、行くところすべての霊的空気を変えていくことを学ぶことです。私たちの上に聖霊がとどまられる場所を設けることは可能です。それによってあなたが入っていくだけでその場所の霊的空気をシフトさせることができるのです。私はこれをもう何年間も試しています。あなたが「自分はそれを持っている」とはっきる自覚し認識するならば、あなたは現実にそれを顕していくことが可能となるのです。

福音のミニストリーとは、単に言葉だけでするものではなく、地上に主の臨在を解き放つことなのです。ある時イエスが道を歩いておられたとき、イエ スのされた奇跡を見て興奮した群衆が回りに押し寄せてきました。するとイエスは立ち止まり「わたしにふれたのは誰か」と聞かれました。そして振り返って長 血の女を見られました。病気を直すためにすべての財産を失った女でした。彼女はただイエスの衣のすそに触れただけでした。 聖霊の臨在は単なる論理とか教義ではなく、神というお方の実体なのです。聖霊はイエスの上にとどまっておられたので、女が衣のすそに触れたときに、イエス がもっておられた聖霊の実体が流れてきて彼女はそれを受けることが出来たのです。このように聖霊の臨在が自分の上にあることをはっきり自覚し、誰かがそれ を求めた時にそれが流れていくことがわかるという敏感さをもって生きるとは、どのようなことでしょうか。神は御霊をイエスの上に無限に与えられていまし た。ですから誰かが持っていったのでイエスの上の聖霊の臨在がもうなくなった、ということではありません。イエスは常にご自分の上にある聖霊の臨在をはっ きりと意識しておられました。イエスと御父との交わりを司るのが聖霊の役目だったからです。イエスは父のすることだけをし、話されることだけを話したので すから、聖霊につねに頼っておられたのです。

ペテロとヨハネは神殿に行くときに、生まれつき足のきかない男を見ました。ペテロは「私は金銀はないが、私にあるものをあげよう。」と言いました。 これは非常に意味深い言葉です。ペテロは「あなたのために祈りましょう。」と言ったのではありません。「私はあなたに私が所有しているものをあげよう。」 と言ったのです。私たちが、もし自分が所有しているものを自覚せずに生きるならば、神が下さっている銀行口座に見合った小切手を切ることはできません。わ ずかな金額の小切手というミニストリーをしてしまうのです。お金をことではありません。私たちは自分がどれほど大きなものを持っているかを自覚しないの で、ミニストリーにおいて小さなリスクしかとれないのです。神の啓示が皆さんの上に注がれて、神が私たちにどれほど大きなものをすでに下さっているか、分 与していてくださっているかを、もっと認識されることを願います。それによってすでに持っているものではなく、私たちにないもの、足らないものを祈り求め ることができるようになります。

ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って彼の右手を取って立たせました。何が起こったのでしょうか。イエスは神の 御国はあなたがたのただ中にあると言われました。イエスは「わたしが話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスは父の言われる ことだけを話されました。ですからイエスに端を発することばではないのです。ここで思い出していただきたいのですが、イエスはご自分を無にされたので、ご 自分では何もできず、すべてを父から受けとらねばなりませんでした。人間イエスとしては何も与える力はなかったのです。主は私たちのためのモデルとなって くださったのです。

イエスは神のことばが肉体となった方であり、イエスが話されるときにはすべてのことばは霊となりました。ロマ書でパウロは、「神の国は飲み食いのこ とではなく、聖霊にある義と平和と喜び(righteousness , peace and joy in the Holy Spirit)である」と言っています。神の国は聖霊のうちにあるのです。ことばが霊になるとき、神の統治、支配の領域が人間の上に解き放たれるのです。 父の言われていることを私たちが言う時に、私たちは神の臨在をこの世に解き放ち流しているのです。声が大きいとか内容がいいとかとは関係ありません。その ことばの源が鍵なのです。父の御心からのことばを私たちが話すときに、聖霊というお方が解き放たれます。聖霊の臨在の中には御国の統治、支配が含有されて いるのです。ですから「悔い改めなさい。神の御国が近づいた。」と主が言われるとき、主は「わたしが話すとき、そのことばが持つ実体があなたの上に解き放 たれて、あなたの回りの環境が変えられ、あなたの祈りの答えは近づいた(at hand)」と言っておられるのです。

イエスに長血の女が触れたとき、力が主から出て女の身体を変えたのです。ペテロは自分の持っているものを知っていたので「私が持っているものを主イ エスの名によってあなたにあげよう」と言ったのです。これは初代教会において非常に顕著なことであったので、民衆は弟子たちがどこに行くのかをいつも知ろ うとしました。 ペテロが祈りに行く時に通る道に病人を連れてきて、ペテロの影がかかるようにしました。影そのものはなんの実体もないものです。影が癒したのではなく、影 がかかるくらいにペテロのそばに近寄ることによって癒されたのです。民衆は教義を教えられなくても、神の人が歩くときには回りの環境、状況、空気が変ると いうことを観察して知ったのです。

陰鬱なクリスチャンが部屋に入ってきても、その影で人が癒されることがないのを私たちは経験で知っています。それは落ち込んでいる人は自分の内側に 向いているからです。内側を向いている人は死海になってしまうのです。水は死海に入ってきますが、死海から出て行くものは何もありません。そこにあるすべ てのものは死んでしまいます。同じことが私たちにも起こるのです。自分の心配、失望、落胆等にずっと捕われ続け、聖書の真理や解決法を自分の人生に適用し ないならば、自分のことだけしか考えない自己中心に陥るのです。あなたは自分を駄目な人間だと遜っているつもりかもしれませんが、自分のことだけを考えて いるという点で自己中心に変わりないのです。私は何時間も何時間も祈っていたことがありましたが、それはみんな自分のことを祈っていたのです。私は「神 よ、私はなんと情けない人間なのでしょうか...」といつも告白していました。私は自分が~でない、ということに心を捕われていて、神がどういうお方であ るかに心を向けていなかったのです。そのように自分に捕われていることは、自分がこの世で一番偉いのだと威張って歩く自己中心と実は同じなのです。一方の 自己中心はすぐに目につきますが、もう一方は教会の中に知らないうちに毎日忍び込んでいるのです。偽りの遜りは決してあなたを目的地に導きはしません。私 が恐れや心配とかで自分のことにだけ捕われている時、私は内に向かっていて、自分から放つべき聖霊の流れを止めているのです。聖霊の流れは愛によって流れ 出るからです。

例えば、私が集会である人に預言のミニストリーするとします。私はその人に惹き付けられるような感覚を感じ始めます。それは神から出た愛情です。人 間的なものではありません。もしその時私が自分の恐れや心配に心を捕われているとしたらどうでしょうか。私の中から神の臨在が流れ出して回りの環境を変え て行くべきであるのに、それはただ内側で自分を慰めるためにだけ使われてしまうのです。私は死海になってしまうのです。

イエスは3年半の間におびただしい数の人々を癒し解放されたので世界もそれを書かれた書物を入れることができないというのは、私たちには途方もない ことのように思えます。イエスのインパクトはそれほどおびただしく、全部を詳細に記録することはできなかったのです。それは一人の人の中で3年半の間、聖 霊が消されることがなかった結果なのです。神の臨在が一人の人の上に3年半とどまった結果なのです。

その事実の大切さをペテロはイエスから学び、彼も鳩のような聖霊を歓迎し自分の上にとどまっていただくようになったのです。クリスチャンの内には聖 霊がいて下さり、決して離れないと約束してくださっています。しかしそれとは別に私たちの上にとどまる聖霊の臨在というものがあるのです。それは私たちが どれほど主と時間を過ごしているか、どれほど自分を召しのために明け渡しているかということによって決まるのです。ペテロやパウロがそのよい例です。

私は彼らに嫉妬をおぼえます。あなたはいかがでしょうか。このようなことが私にも可能であると知るとき、私の心はうめくのです。イエスは「わたしを 信じる者は、わたしのわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。それを聞いてあな たは「そんなことはあり得ない」と無視するか、それとも狂ったようにそれを求めるかのどちらかです。私は神に「どうかそのようにあなたの臨在を放ち流して いく者にしてください」と気違いのように求めたいのです。(終)

2014年3月11日火曜日

神の祝福を喜び祝う – ビル・ジョンソン

神の祝福の受け取り方
聖書には「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」と あります。教会はこの言葉が大好きで、人が主の御前でへりくだるときに喜びます。しかしその人が高くあげられた時はそれほどには喜ばないのです。聖書は 「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言います。私たちは人が神の国と義を求める ときには喜びます。しかしその人にすべてのものが与えられると、どう対応すればよいか分からないのです 。イエスは「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば隠れた所 で見ておられる父が、あなたに(人々の前で)報いてくださいます。」と言われました。 私たちは犠牲的な施しを極めて高く評価します。しかし、主がその人を公に報いるとき、私たちはどのように反応してよいか分からないのです。

神よりも人を愛すことが起こりえるでしょうか? そうです、イエスはそのような人はわたしにふさわしくないと言われましたね。では人々を愛すること なしに神を愛することは可能でしょうか? できませんね。これはとても不思議なことです。私たちが神を第一とするとき、他のものは一切無価値となります。 しかしその時神は「最も小さいものにすることはわたしにすることだ」と言われるのです。ですから、人々を充分に愛することなしに、神を充分に愛することは できません。

では私たちは神よりも財産を愛することがあるでしょうか?ありますね。では財産をうまく管理しこの世のために巧く運用することなしに、神を愛するこ とができるでしょうか? 私はそうは思いません。キリストのからだの中に、神が自分によくしてくださったときに、何かそれに対して謝らねばならない、恥ず かしいと思わせるようなプレッシャー、雰囲気があります。私は経済的なことだけを言っているわけではありませんが、それも含みます。魂の繁栄はすべての面 に反映するからです。私たちはこの世に対して2つのことを示し与える責務があります。それはまず神との出会いであり、次に祝福された人生です。ある人が神 に良くしてもらった時、それを隠さねばならないとか、そのことを謝るのを見るのは、私にはとても辛いことです。誰かが新しい車を与えられた時、どのように してその車を神が与えてくださったかを詳しく説明するのをよく聞きます。あたかもまわりの私たちが「彼はそのような車を持つに値しない」と 思っているかのようにです。 ある人が隠れた所でなした良い業に対して神が人々の前で報いた場合、往々にして私たちはその人の「隠れた所での良い業」を知らないのです。

地の塩、世に光の役目とは

イエスは「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら何の役にも立たず、  人に踏みつけられるだけです。」と言われました。私は今まで「塩は保存剤、防腐剤である」と教えてきました。肉は塩づけにすることによって長期間保存でき ます。私たちの内にある御国の文化をこの世の中で腐らせないようにするのが塩です。私はその真理を信じています。しかし、イエスが「あなたがたは地の塩で ある」と言われたのは、そういう意味ではないのです。それはこの世の上に私たちがふりかけられるということだと思います。つまり、この世にあるものをもっ と味よくしてその旨味を増すということです。私たちのまわりにあるすべてのものに、よい味、よい風味をつけるのです。経済システム、教育システム、政治シ ステム等すべての分野において、神を知っている人たち、神によってその場に置かれた人たちが創造的能力を用いることによって御国がもたらされ、よい風味が 付けられるのです。

イエスは又、私たちは世に光であると言われました。私は今まで「光はすべてのものを照らし出しあらわにするものである」と教えてきました。けれども イエスはその後続けて「山の上にある町は隠れる事ができません。」と言われました。ですから町の役目は暗やみにあるものをあらわにすることではなく、失わ れた人たちがその光を見て道を見つけることです。主は町を人々に見えるところにおかれたからです。この光は人を引きつけ引寄せるものです。

旧約と新約の真理

次のシーズンに主が私たちを導こうとしておられることは、旧約の真理と新約の真理が一つになることです。或る事に関して聖書の中で一番最初に書かれ ている記述は、その後のすべてのそのことに関する記述の基礎、基準となり、それを正当化しサポートするものとなります。人の内に働く聖霊に関する最初の記 述は出エジプト記35章30、31節にあります。
「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツアルエルを名ざして召し出し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」
ベツアルエルは神殿を建てるために必要な創造的な知恵と英知を主から与えられました。新約では、聖霊の全きあらわれは力であると言われています。主 が新しい真理を顕されるとき、それがそれ以前の真理を無効にすることは決してありません。実際、前の真理は、次の真理のためのセッティングのようです。ダ イヤモンドの指輪のセッティングがまず用意され、次にその上にダイヤモンドがおかれ、しっかりと固定されるのです。旧約の啓示は宝石がはめられる場所を用 意することであり、それがあるからこそ宝石はしっかりとはめ込まれるのです。旧約は第一段目の真理の基礎を築いています。ですから聖霊の全き顕れは、まず 知恵として顕れねばなりません。そして聖霊の傾注によりその中に力が注がれます。この二つが一つになることが、私たちにリバイバルのチャンスを与えるばか りでなく、改革の知恵を与えるのであると思います。知恵という文脈の中でこそ、天にある型どおりの家庭、ビジネス、地域社会、国家など、すべてのものに形 が与えられ、どのような文化の中にあっても神の力が顕されるのです。

真のリーダーの役目

リーダーは人が与えられている力をすべて発揮できるようにと導く人のことです。もし私が御国の真のリーダーであるならば、 人々は私が与えるものによってより恵まれるはずです。彼らは神の意図された人生へとより近くなるのです。私たちが地の塩としていろいろなシステムに振りか けられるならば、社会全般において人々をより味のあるよい働きをする者に変革してゆくことができるはずです。神がその人のために意図された人生から、敵が 多くの人を迷い出させていますが、私たちはそれと逆に人々を神が意図された人生へと導くのです。
知恵が力と一つとなって物事を本来あるべき姿に引き戻します。興味深いことに、  「塩けを無くす」という言葉は、 「愚か foolish」と同じ言葉なのです。即ち、塩けのない塩は「愚か」ということです。聖書の中でそれは知恵の反義語です。

パンと種の違い

エペソ3:10に「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」とあります。教会は今、神の 知恵をこの世の主権、力に対して示すと書かれているのです。天にあるものを地でもあらわすのです。それは私たちがどのように生きるか、どのように人間関係 を築くか、どのように財産をマネージするか、どのようにパンと種を区別するのかという知恵です。自分の種を食べてしまうのは愚かなことです、種は将来の収 穫のために蒔くべきものだからです。パンと種を与えてくださるのは主です。種を食べるのは愚かなことであると同時に、パンを蒔くのも愚かなことです。

私たち夫婦は常に20%主に献げてきました。献げることが私たちの人生の重要な要素でした。しかし最近、私はこのことに関して学ばされています。と言うのは主が私に「あなたは自分のパンを蒔こうとしている。」と言われたのです。
例話をお話しましょう。私の誕生日は7月ですが、その日私は自分の3人の息子とその妻たち、9人の孫に私がプレゼントを上げるます。父の愛がどのよ うなものであるかを示すチャンスは他にないからです。私の誕生日の一ヶ月ほど前に二人の孫が「おじいちゃんの誕生日に何を買ってもらうの?」という会話を していたのを耳にしました。(笑)私は常日頃、子供や孫、そして友人たちがどのような願いや夢を持っているのかを注意深く聞いているのですが、それはとて も楽しいことです。彼らの顔がどんな時に輝くのか、うれしそうにするのかを注意して見ているのです。どんな香水が好きかとか、どんな料理道具が好きだとか を聞くと、それを心に留めておきます。それが私の人生の喜びの一つです。

私の息子のブライアンはワーシップのミニストリーをしています。今から話すことは本当のことではなく、ただ仮にそうであったらという話です。私がブ ライアンのために特注のギターを注文したいと思ったとします。私はいつも彼の言うことを注意深く聞いていて、彼はどんな色が好きか、どんな木が好きか、サ イズやデザイン、すべてのことを長年の間に書きとめてきました。そしてやっと息子にぴったりの完璧なギターを作れる職人を見つけたとします。そこに行って 「私の誕生日が7月に来るのですが、このようなギターを息子のために作ってくれますか」と頼んだとします。すると彼はその通りのギターを作ってくれまし た。私の誕生日が来て一人ひとりが私からのプレゼントを受け取りました。ブライアンの番になり、彼はギターを見て大喜びをし、私もすごくうれしかったので す。さて、次の日曜日、私は何を見ているでしょうか。彼がそのギターを使って演奏しているかどうかです。でも彼を見ると、そのギターを使っていません。ま あ、何か不都合があったのだろうと自分を納得させます。次の日曜日も、そして次の日曜日も、彼はそのギターを使っていないのです。3週間くらいたって私は 礼拝後ブラリアンに「すばらしいワーシップだったよ・・・ところで、私があげたギターを使っていないようだけど・・・」と聞くと、彼は「お父さん、本当に すばらしいギターをありがとう。誰それがギターを必要としていたから、その人にあげたんだよ。」と言うのです。さて、父としてはどういう気持になるでしょ うか? 父はギターを息子に「蒔くべき種」としてではなく、「息子が 食べるパン」として上げました。父(天の父)の喜びは息子がそのギターを喜んで弾くのを見ることだったのです。

私たち教会は今、持ち物、財産、経済に関して、ある解放を必要としていると私は感じています。信仰があれば財産が増えるという考えは、馬鹿げていま す。でもその誤った考えに対しての反動が大き過ぎると、それも又誤りとなります。今はこの問題に関して教会は混乱していますが、しばらくすればこの世と 天、即ち物質世界と霊的世界とを御国として調和させることができる世代が生まれてくると信じます。私たちが物質世界でどのように物事を扱うかをこの世は じっと観察しています。それを通して私たちは 御国の生活方法をこの世に伝えることができるのです。

知恵の3つの姿

知恵は、基本的に3つの姿で顕されます。箴言の中に繰り返し言われていることなのですが、それは「創造力、優秀さ、誠実さ」です。しかし、私たちが テストされるのはこれらに関してではありません。私たちがどれほど創造的であるか、優秀であるか、誠実かをこの世からテストされるのではなく、この世は私 たちが与えられた「資源、権威、神からの祝福」をどのようにマネージして扱うかを見ているのです。権威を用いる第一の方法は正義、公義を行うことです。聖 書は多くの宝が貧しい者の立っている地の中に埋められていると言っています。しかし不正が彼らにそれを掘らせないのです。権威がそこに行って不正を打ち破 ることによって、彼らにその宝を手に入れさせます。施しや贈り物はそれはそれで大切ですが、与えるだけでは問題は解決しません.不正を打ち破ることで解決 します。神はこのために私たちに権威を与えておられます。
それでは神からの好意、祝福をどのように扱いますか? 「神が何かすばらしいことをしてくださって自分はとてもうれしいのだけれど、高ぶっていると 思われたくないので、あまり人には言わない」ということがあります。私たちが地上で生きる日数には限りがあることを知っていますね。そして私たち個人の 力、肉体的、感情的、霊的、知的能力には限りがあることも知っていますね。それを越えて何かをしようとするならば多くの悲劇が起ります。
それと反対に私たちは無限の資源を天に持っていることもよくご存知ですね。それでは、どうして教会は繰り返し限りのあるものを犠牲にして無限なもの を引き出さないでとっておこうとするのでしょうか。それは人を恐れるので、 無限にあるお金を守るために限りある人間的な財力を使い果たすのです。それが御国でしょうか? それは宗教的な事であり、人はあなたを誉めるでしょう。し かしそれが御国ですべきことしょうか。あなたはまわりにいるすべての人から認められるでしょう。しかしそれが御国でしょうか。神は今改革のためのシフトを 一人ひとりに用意されていますが、真剣にもう一度お金をどのようにとり扱うかについて考え直す必要があります。勿論、惜しみなく人に分け与える寛大さは基 本であり第一義的なことです。私にとってもそうです。しかし主は管理とマネージの点で私たちに教えたいことがあるのです。私たちは単に「気前が良くてやさ しい人」として知られるだけではならないのです。

荒野と約束の地との違い

イスラエルがエジプトを出て約束の地に入るというのはとても分かり易すく、自分の人生に当てはめることができます。ここで私にとって痛いほどはっき り分かったことがあります。それは「毎日の必要を主により頼む」というライフスタイルを、  クリスチャン生活の究極の理想だと必要以上に称賛していたことです。しかし、皆さん、それは荒野での生活の仕方であって、約束の地に入ってからの生活では ありません。私の父は牧師でしたが、ずっとクリスチャンは祭司であることを教えていました。70年代の初めの頃から教会から王たちが社会に出て行き、そこ で奇跡を起すことが強調されて来ました。そして多くの奇跡が起こりました。個々の奇跡だけではなく、社会が変えられて行きました。教育、政治,経済界にい る人々の上に油注ぎが画期的に増加しました。それは自分の召しに対する油注ぎをみんなが自覚したからです。 「王はマーケットプレイスに出て行き、祭司はミニストリーをする」という形でした。強調されたのは王たちが祭司と同じ油注ぎをもってマーケットプレイスで 働くということでした。
しかしこれからの数年にシフトが起り、今までのように祭司が王に霊的分与をするのではなく、王が祭司に霊的分与をするようになるのです。王のやり方 こそが約束の地での生活だからです。教会が受け取る十一献金や捧げものは教会の収入のほんの一部という教会が沢山でてくると思います。これは教会が宝くじ に当たるとかではなくて知恵によるのです。神が与えてくださるものを適切に管理、マネージするところからくるのです。教会が神から受ける恵みを自らの名を 高めるためではなく、主のために知恵をもって管理するかどうか、この世は見ています。神が与えてくださる資源を私たちが恥と思わないで、回りの人々に影響 を与えるために用いて行くのです。神は私たちを「仕える者の心をもって治め、王の心で仕える者」として召しておられるのです。私たちがそのような権威をい ただいたのは、回りの人々がよりよくなるためであるということです。

シバの女王の言葉

シバの女王がソロモン王に会ったとき「主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王として公正と正義を行なわせられるのです。」と言 いました。神はイスラエルを愛したが故にソロモンに知恵を与えました。つまり 神が私たちに途方もない恵みを与えてくださるのは、 神の愛する人々が私たちを通して恵まれるためだということです。もしその恵みを自分だけにとどめておくならば、それは大きな間違いです。自分もそれによっ て恵みを受けないということではありませんが、神の目的は私が出会う人々に力を与えることです。神からの私たちへの資源、恵みはそのためなのです。恵みを 受けた者としてあなたは自分の選ぶ人に王の笏を差し伸べることができます。その人はあなたによって神の訪れを受けるのです。

祝福を願う祈り

この考えが聖書的であるか見てみましょう。
詩編67:1「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」
まさにこれは主に祝福を願う祈りです。それによって私たちは効果的に人々を祝福することができます。私はこれを読んだとき、祝福を願うのは良いことなのだと知って大変うれしく思いました。
私は犠牲的に献げることを信じています。私たち夫婦は超自然的に神様が満たしてくださることも何度か経験しています。そのような奇跡が今も続いてい ることを感謝します。私の大好きな話は、「宣教師の家族が何も食べ物がないのに食卓に空の皿をならべ感謝の祈りを終えたとき、戸を叩く音がし,食べ物を 持ってきた人がそこに立っていた」というものです。これは本当にすごくすばらしいお話だと思います。私は神がそのように必要を満たしてくださる方であるこ とはすばらしいと心から思います。しかし、私は食べ物を持って戸を叩く方の人になりたいのです。

「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださいますように」とありますが、これは「主の臨在の顕れのない祝福はいり ません」ということです。人が私を見たとき、何かこの人には違うものがある、と分かって欲しいのです。私たちの町では、「あなたの教会員がうちの会社に 入ってから何かが変った、彼が来てから会社の空気が変わった」といわれます。2節に「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に 知られるためです。」とあります。これは驚くべき言葉です。「神よ、あなたが私を祝福してくださらなければ、国々はあなたがどういう方であるかを知ること ができません」と言っているのです。私たちが主の祝福をうまく持ち運ぶことに国々の救いがかかっていると言っているのです。
謙遜と思われることが、実は高慢、プライドであることが時としてあります。それは神が与えてくださる祝福を管理しマネージして、人々の心に持ちはこ ぶことを拒否することです。 私たちは荒野のマナではなく、約束の地での収穫によって主に栄光を捧げるべきです。「すべての国々」とあります。私たちは聖書のなかの「すべて all」 ということばに鈍感になっていることがありますが、これはすべての国々が収穫されると言っているのです。そしてそれは 神の啓示、神の好意があなたの上にあるということに直接かかっているのです。

3−6節「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。国民が喜び、また喜び歌います ように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたを ほめたたえますように。地はその産物を出しました。」
地は神のご計画にそって産物を出すことを待ち望んでいるのです。それを抑えているのは、神の民が神の自分に対す る御計画を悟らないからです。ローマ8章にあるように地は神の子が現れるのを待ち望んでうめいています。神の子が正しい場所につき、自分のためにだけ蓄え るのではなく、神が与えてくださるものを回りの人に分け与えて仕え、神の恵みで地に味をつけるのです。あなたの上にある聖霊の麗しさは、まわりにいるすべ ての人の人生をより高めるものです。

7節「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」
この章は祈りから始まりましたが、最後の7節は  驚くべき告白、宣言です。これ以上偉大な約束はありません。「神は私たちを祝福される!地の果て果てがことごとく神を恐れる!  God shall bless us and all end of earth shall fear Him!」と宣言しましょう!
ルビーよりも知恵をあなたは選び取らねばなりません。それは経済的犠牲を伴なうということです。しかし主はその後、知恵を追い求める者にはルビーを も与えると言っておられます。ですから「手放しなさい。そうすれば主は増し加えてくださいます。」これが御国の方法です。祝福された人生は、身体の健康や 創造能力に反映されます。私の頭は雑多な思いに煩わせられることがないので、常に自由に解放されていて、チャレンジを受けたときに創造的に対応することが できるのです。神は私たちのすべての面において祝福を与えてくださる用意があります。レストランに行く時、ビジネスをする時、近所の人と話をする時、彼ら は私たちが彼らを愛し受け入れていることを感じてみんなそばに寄ってくるのです。本当にシンプルで小さなことですが、それも神様の祝福です。それと同じよ うに大きな事柄に関しても私たちは神の祝福によってすばらしい決断をすることが出来ます。これからは一日なりとも神の祝福なしには生きないと決心しようで はありませんか。

祈り


神様、ある人の今までの人生やあなたとの歩みを知らないで、その人を批判し裁いていたことをお赦しください。人々の遜りは喜びましたが、昇進を喜び 祝わなかったことをお赦しください。私たちの心の中にもっと完全な御国の啓示をください。これから祝福が増し加わって行くシーズンに、あなたが与えて下さ るものをどのように管理しマネージすればよいのかを悟る知恵をください。イエスのすばらし御名によって祈ります。(終り)



http://www.banministries.org/?p=2287
http://www.banministries.org/?p=2292

2014年2月14日金曜日

イエスは私の恋人

グラハム・クック

「イエスは恋人」というと、最初は少し奇異な感じがするとは思います。しかし2月はバレンタイン・デイがあり、それは私たちの人生で大切な人々に感 謝を表す日です。でも私たちは、イエス様がその大切な人々の中のお一人であることを忘れてしまいがちです。  バレンタイン・デイに、もし私が大切に思っている誰かにカードを書いたり、詩を書いたり、何か意味のあることを小さな形で表そうとするのであれば、私はイ エス様にこそ先ず、それと同じ喜びと感謝を表すべきではないかと思うのです。

そこで私は、今年はイエス様を「私の恋人」として詩を書くことにしました。皆さんもイエス様をこそあなたが愛する方として何かの方法でそれを表されるようにチャレンジしたいと思います。

もし何をしたらよいのかわからないと思われる方のために、ここにいくつかのアイデアを書きます。このままお使いになってもいいですし、また何かを加えたりしてどのように変えてくださってもかまいません。

簡単にできることは、その日に祈りと黙想のために意識的にいつもより時間をかけることです。毎日の生活が忙しくなると、主との関係が希薄になっ てしまいがちです。ですから少しゆっくり時間をとって主との関係を回復してください。主に耳を傾け、今あなたが主のあなたに対する意図を感じていない部分 の中にも主の御こころを見つけてください。
イエス様に手紙か詩を書いてください! 次の文はあなたが書き始める助けになると思います。
1.次の文章を完成してください。「私は ーー の故に主が私を愛してくださっていることがわかります。」
2.「私は主に愛されている」と特に強く感じた時のことを書いてください。
3.FRIEND とかSAVIORの文字を縦に書いて、それぞれの文字を頭とした文を横に書いてみてください。
「イエス様のこういうところが一番好き」ということで、自分もそうなりたいと願うことを書き出してください。そして手作りのカードに書いてくださ い。 その中で一番あなたにとって難しいことを一日中念頭において実践し、それによって神の愛があなたから輝き出るのを人々が見て、バレンタイン・デイがそれら の人々にとってもすばらしいものになるようにしてください!(終り)

http://www.banministries.org/?p=2265

2014年1月4日土曜日

主にクリスチャンとしてのあなたの意志をいつも伝えなさい


グラハム・クック

ピリピ2:12-16
「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
 14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
 
あなたが持っているものの中で最も力のあるものの一つはあなたの意志です。あなたが霊的に生きるために、事を進めて行くのはあなたの意志であって、感情とか、マインド(魂の部分)とか信仰ではありません。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせます。(上記2:13)
あなたの意志は完全に感情とは切り離して存在すべきものです。聖書の中に出て来る偉大な神の人たちは皆、自分の「意志」をどのように使うかをよく知っている人たちです。その例を挙げれば、ナタナエルがそうです。(ヨハネ1:45-50参照)彼にあっては意志が感情より大きいことが分かります。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせて下さいますが、私たちは自分の感情を全く切り離して、完全に自由な意志を持つ必要があるのです。そしてあなたの意志が強くなれば、あなたの意志が感情を用います。例えば主を礼拝する感情を起こさせるのはあなたの意志です。重要なことは、その逆ではないと言うことです。
ところが、私たちは感情に支配されやすく、その気にならないとか、あるいはそのような気分(感情)でない時には、意志があっても、それを実行に移さないことがよくあります。気分がとても悪い時などは、その感情に全く支配されてしまいます。しかし、神が来られてあなたの意志を完全に自由にして下さると、自分の感情とかムードに左右されずに、私たちが信仰で神の御心を知り、それを行うことを選べるようにして下さいます。ですから、私たちは自分の意志を聖霊にどのように言い表すかを学ぶ必要があるのです。
そこで毎日の生活の中で、あなたは神の御心にそって自分がしたいと思うこと(クリスチャンとして常に持つべき意志)を自分の意志として聖霊にお伺いする(提案する)と、聖霊がそのあなたの意志を御心に添って、実際に事が運べるようにして下さいます。
聖霊に申し上げると、時には一瞬のうちに自分が捕らわれている感情を払拭して下さいます。「私は主をいつもほめたたえ祝福したい、いつも喜んでいたい、いつも感謝したい(そんな気持ちが全くしない時でも)」というあなたの「意志」が実行できるようにあなたをネガティブな感情から開放して下さるのです。
ですから、私たちは毎日を過ごす時に次のような選択をしなければなりません。すなわち、あなたの意志が毎日、いつでも感情に捕らわれていないフリーな状態であることを選ぶのです。それはちょうどイエスが、その選択をして毎日を生きられた通りです。その秘訣は、神の御心であると信じるあなたのしたいことを、神にいつもお話しすることです。そうすればあなたの意志であるあなたの霊的活動―主を礼拝し、人に証をし、又すべてを祈り、霊の戦いに臨ませること―を聖霊がさせて下さるのです。それは自分がそうしたくないような気分の日にでも「父よ、どうか気のすすまない自分を喜んでしたい気持ちにならせて下さい。」と祈るのです。そうお願いすれば、直ぐにでもそのようにして下さいます。
 
ですから私たちは常に、自分が御心を行いたいと言う気持ちと意志を(それは神がどう言う方であるかと言う信仰に基づいて)コンスタントに主に訴え、打ち分け、親しく話すことが非常に重要であるのです。そうすることによって、主があなたに働いて御心を行なう気持ちにならせ、あなたの感情を変え、信仰を強めて下さり、すべてが御心のままに実行出来るようにして下さいます。最も重要なポイントは、「神がすべて私たちが実行できるように事を運んで下さる」ことです。(終り)

    -Approaching the Heart of Prophecyより-

2013年10月2日水曜日

これからの三年間に、あなたのために門戸が開かれ、揺さぶりが来る

― チャック・ピアース師(の教会)に与えられた預言


時が刻む音を聞きなさい。主は言われる。わたしは今あなたを三年先の時点へと噴射した。

今月(ユダヤ暦の新年)はわたしが定めた月の中で最もいとおしく大切な月である。わたしは未だかって開かれたことがない門(複数)に向かってあなた を進ませる。過去においてあなたの前に堅く閉ざされて来たこれらの門の扉をわたしは間もなく開けるようにする。あなたのために用意された祝福を今まで閉ざ して来た門が開く日が来るまでの毎日、毎月を準備の戦略を立てて着々と前進しなさい。もしあなたがその門に向かって今動き始めるなら、これから三年以内 に、あなたは門を入った内側の土地で、大きな宝物の数々を生み出すであろう。


今から三年目に王国間の戦いが始まり、国が国に敵対して立ち上がる。そして又、この世の国々の間にも戦争が起る。わたしは一つの王国を今整えつつある。わたしはこの王国と一人の子孫とその子孫たちを常に覚えて来た。わたしは勝利する王国を持っているのだ。


「この世の国々のすべては神の王国となる」と叫びなさい。「捕われ人たちは解放され、神の家に帰って来る。」と宣言・布告しなさい。その時期、わた しの祭壇は収穫のささげもので溢れる。あなたは周りの人たちを見て「この人たちは違う王国の人たちです。」と言う。しかしわたしはあなたの目を開いて「彼 等はわたしの民だ。彼らを招き入れなさい。」と言うであろう。

多くの門の向こうに、わたしは新しいハイウエイ(大路)を造ろう。それは「エジプト」から出るハイウエイの始まりであり、あなたたちが今歩いているハイウエイをわたしは造り直す。

地球上を網の目のように悪の販路を広げた悪霊たちの本拠地をわたしは根こそぎにする。敵がつくった悪の組織で破滅させるつもりであった人々を、これ からの近い将来、わたしはもはや敵が止めることの出来ないほどの強力な軍隊として仕立て上げる。なぜならその generation 一族(子孫、世代)こそがわたしのgeneration であるからだ。わたしはその軍隊であるあなたがたを「阻止不可能なわたしの軍隊」と呼ぼう。又、「我が王国の大群」と呼び、地球上のすべての敵国を打ち破 る。そして必要なものをその国々から引き出してわたしの王国に持って来る。

国々のリーダーたちでわたしはあなたを驚かす。そのリーダーたちがわたしに対して膝をかがめるようになるからだ。あなたがたは彼らが独自の道を行く と思うかもしれないが、わたしは彼らの足元をすくって彼らが完全に転げ落ちるのをあなたたちに見せよう。その時、彼等は今まで見たことのないような目でわ たしを見上げるのを、あなたたちは見ていなさい。

あなたのハイウエイに来るひとたちに好意を示しなさい。あなたたちの多くが「しかし彼等は悪い性質の人たちです。」と言うでしょう。しかしよく覚えておきなさい。この世にいるすべてのパロが、これから先の日々、あなたに好意を示すようにわたしがすることを。


北から西に地震が起るのを聞くであろう

あなたは「北から西に地が揺すぶられる」と聞くでしょう。あなたは、わたしが「アラスカから来てメイン州を揺さぶる」と聞くでしょう。しかしこれを 知りなさい。わたしはアメリカ合衆国と呼ばれる国(大陸)の中心部の辺りを揺すぶる。わたしは、今まで隠されて来た、その地域を支配している(地下構造 の)力が地を揺すぶり落すことを起こさせる。

わたしはあなたに新しいバプテズマを授けるであろう。そして、わたしの民が「わたしの指」を用いることが出来るようにする。そのわたしの指で民が悪霊を指差せば、悪霊たちは逃げ出すであろう。

この蜜のような新年に、わたしはすべての土地で、わたしの御言葉を求める新しい飢え渇きを人々に与える、と主は言われる。過去にわたしの御言葉を知っていた人たちには、同じ御言葉に対して違った味(意味)と見る目(霊的)を与えるであろう。

この新しい年、あなたは、あなたの将来へとあなた自身を噴射して、あなたのデスティニーへのすべての門に入れる準備をする時として下さい。(終り)


Chuck D. Pierce
Glory of Zion International Ministries

翻訳:http://www.banministries.org/?p=2177

2013年9月11日水曜日

「溢れるまで満たされる」伝道 Overflowing With Jesus Evangelism

最近、「友人伝道」について興味深い話しを聞きました。

ある宣教師とその仲間は、結構難しい文化の中で伝道活動をしました。彼らは、まず人間関係のベースを作ってから福音を伝える「友人伝道」の計画をたてました。
しかし、時間が経つと、未信者の友達になかなか福音を伝えることを遠慮してしまい、もし伝えたら拒否されるんじゃないかと恐れるようになりました。
結局、5−6年経って、遂に福音を伝えてみたら、やっぱり拒否されました!

友達作りのベースの上に福音を伝えることは、聞こえは良いのですが、この経験をちょっと分析してみましょう。
(私の考えをシェアさしていただきます、また皆の意見を聞かしてください。)

まず、私達キリスト人の本来の生き方とは、イエスの弟子として自然に歩み、御国、福音を自然に現すはずですね。隠れキリシタンではなく、公キリスタンだ!
毎日、主の安息に留まりながら、その溢れる喜びの中から周りの人に御国を現していきます。

多くのクリスチャンは、自分の普段の生活と福音を伝える「伝道活動」などを分けて考えてしまいます。
そのことによって、多くの未信者は、今まで友達として良くしてくれたのは、実は福音を受け入れなければならないという裏があったからなのか、とプレッシャーを感じてしまいます。そして、反発します。

いや、いや、元々そんなつもりじゃないですよね。
本来の自分は、主の喜びに溢れ、御国をあらわし、福音(良い知らせ)を伝えながらが生きる事が一番自分らしいはずですね。
改めて、神様の事を不自然に、取って着けたように語るのではなく、自然の関係の中に、神の愛を分かち合うことですね。
友達が悩む時に、祈ってあげて励ますこと
友達が病む時に、祈ってあげて癒すこと
友達がいらいらする時に、祈ってあげて平安を与えること
友達が将来を心配する時に、祈ってあげて預言してあげること
友達が過去のことを後悔するときに、祈ってあげて主の赦し、購いを紹介すること

時には、特別な機会のために話すこと、祈ることを準備した方が良いかもしれませんが、自分から自然にながれるようにしましょう。

伝道することは、友達となる条件ではない。しかし、私はイエス様を愛しています。大切な友達に、愛するイエス様のことを語って、紹介するのは当然!
隠すほうが不自然。イエスを愛している、いつも喜んでいる、そんな私を拒絶するなら、それは仕方が無いね。
イエスの光を隠さない。わざとらしくしない。

「友人伝道」よりも、すべての出会う人に、神さまの愛と平安を自然に流しましょう。
周りの人々のために、私たちの一番良い行動は、常にイエスの愛と喜びに溢れるまで満たされていくことです。

(続けて考えてください:イエスは、売春婦と取税人と交わった時に、福音を伝えるチャンスを探したでしょうか?先に友人関係を作って、いつか福音を伝えると計画したでしょうか?いや、イエスご自身は福音でした。神の愛、受け入れ、贖い、恵みが限りなくそのうちから流れて来たでしょう。そのために、人はイエスの横に居たいと思った。また、イエスが彼らのために祈った時に、彼を拒否しなかった。私たちの人生もそんな風にありたいですね。)

ジェフ onfire.jp


I just read an interesting story about Friendship Evangelism that I thought I'd share.

Some missionaries were working in a rather difficult culture. Their strategy was to do “friendship evangelism” where they first built relationships as a platform to eventually share the gospel.
However, over time, they became fearful that if they shared the gospel with their friends then they might reject them, so they hesitated to share. After 5-6 years they finally decided to share the gospel and sure enough, their friends rejected them and didn’t want anything to do with them!

Firstly making friends then sharing the gospel sounds like a good idea, but let’s analyse this experience a little. (I will share my viewpoint, but please feel free to make comments!)

Firstly, to live naturally as a follower of Jesus, our real self should represent the Kingdom and gospel of God in a natural way. We are not the hidden Christians from historical Japan (kakure kirisutan) but public believers who wear the joy and love of God wherever we go. As we remain at rest in the sabbath of God, we will naturally represent the Kingdom to the people around us.

Many Christians separate their “normal” daily activities and their “spiritual” activities like sharing the gospel.
In doing that , pre-believers feel pressurised to go to church or accept the gospel if they want to be a friend of the believer. And of course, many react negatively to this pressure.

But it should not be like this!
The “real” me is a follower of Jesus who is full of joy of the Lord, representing the Kingdom of God, and naturally sharing the good news of His salvation through our lives.
Instead of it being contrived and forced, it should be the most natural thing for us to share the love and goodness of God with those around us. After all, if Jesus is so important to us, it is un-natural that we wouldn’t share about Him in every relationship that we have.
When our friends are worried, we can pray for them and encourage them.
When our friends are sick, we can heal them.
When our friends are frustrated, we can give them peace.
When our friends are worried about the future, we can prophecy for them.
When our friends are filled with regret for the past, we can tell them about the forgiveness found in Jesus and lead them to the great Redeemer.

That said, it might be good for us to mentally prepare what we might say, and how we might pray in various situations. (1 Peter 3:15) There are practical ways to shake off the fear of man, and be more willing to obey the urgings of the Holy Spirit when he stirs us to say something or pray for someone.
But let’s allow the love of God flow naturally through us.

To evangelise someone should not be a condition for friendship. Hey! I love Jesus... and it is only natural that I will share that love with the people I meet. If they think I’m weird and reject me because I wear the goodness of God on my sleeve, so be it!
Let’s not hide it.
Let’s certainly not contrive it.

More than so-called “friendship evangelism” let’s just be friends with everyone meet and let the goodness and love of God flow un-hindered to them. The best thing we can do for the people around us is to be continually filled to overflow with the love and goodness of God.

(For your continual thoughts and meditation: remember Jesus. Hanging out with the prostitutes and tax-collectors. Did he “share” the gospel? Was he looking to make friends first before He told them the good news?
No, He was Mr Gospel Himself, with the goodness, love, acceptance, mercy and grace of God continually flowing from His being. People wanted to be with Him. And they didn’t reject Him when He healed or prayed for them.)


Jef L.

2013年8月1日木曜日

あなたの夢こそが発明の母!

ダッチ・シーツ

気が付いておられるかどうかわかりませんが、あなたは夢を描く性質を持っています。その性質はあなたを造られた方から受け継い だのです。神が私たちを神の似姿に造ったのは、 私たちの心が神の心、神の夢を描く心と結ばれて、それが私たちを通して数えきれないほどの表現でこの世にあらわされるためです。あなたは夢を描くようにデ ザインされているのですから、夢を描かねばなりません。それはあなたのため、そして神のためです。実際、もしあなたが夢を描かないならば、決してデスティ ニーを達成することは出来ないでしょう。

夢のない人生はサテライトのないGPSのようなものです。GPSは作動するかもしれませんが、人を目的地に導くことはできませ ん。同じように、神から与えられる夢で導かれなければあなたの人生は、決して見つけることのできない目的地を捜しながらハイウェイを走るようなものになる でしょう。しかし、神から霊を吹き込まれた夢を持つならば、それは神があなたのために計画されたデスティニーへとあなたを導くのです。

あなたをデザインされたお方は、あなたが生まれる前からあなたのための夢を描かれたばかりか、その夢を見つけ出し成就する力を もあなたを造られた時にDNAの中に巧みに組み込んでくださったのです。あなたのための神からのデスティニーは、それらの幾つかの夢を総合したものです。 ですから、人生の旅はそれらの夢を捜しだすことが目的です。あなたを創造された方があなたのために描かれた夢を見つけ出すことは、人生に究極の満足感をも たらしますし、人生で追い求めるべき究極のものです。

もしあなたが神の夢を見つけ出さないならば、あなたは 間違ったレースを走って人生を浪費してしまうか、もしくは多くの人々のように何のゴールもないままに生きるのです。又ある人たちは、走ることさえ止めてし まって、 正しい出口にたまたま行き当たることを願いながら人生の迷路をさまよっています。何という悲劇でしょうか! あなたの創造者はそのような行き当たりばった りの人生をあなたに意図されたのではありません。あなたはあなたのための神の計画と夢を見つけ出し、確信をもってそれを追い求めることが出来るのです!

それは夢から始る
 地球上の物事は、あなたがそこに生まれ登場したことによって、何らかの変化が起こるはずです。あなたは全体計画、プランの一部です。あなたはある一つの解決策、発明、祈りであり、私たちに必要な何かがあなたの中にあるのです。そしてそれは一つの夢から始まります。

「Savior for All Seasons」という本の中で、ウイリアム・バーカー氏(William Barker)は夢を描くことについて語っています。巡回伝道者とキリスト教大学で物理と化学を教えていた学長との間の議論がそれです。巡回伝道者はキリ ストの再臨と千年王国が間近であると主張しました。その理由は「自然界に関する殆どすべてのものはすでに発見されたし、すべてのことは発明されたから。」 というものでした。学長はそれに反論し、もっと更なる発明がなされるであろうと主張しました。

「では例を一つあげてください。」と伝道者は学長にチャレンジしました。

「そうですね、50年以内に人類は空を飛べるようになると私は確信します。」と学長は答えました。

「ナンセンス!」と懐疑的な伝道者は叫びました。「飛べるのは天使だけだ。」

この伝道者の名前はライト(Wright)でした。彼にはオーヴィルとウィルバーという夢を描く二人の息子がありました。ご存知のように彼らこそが発明家ライト兄弟であり、彼らは父親よりも大きなヴィジョンを持っていたことを証明したのでした。

夢を描き、プランを立て、創造せよ
夢を描くことは創造性に火をつけます。不可能という言葉は、夢を描く心から流れ出る烈しいエネルギーと創作力に対しては無力で す。夢は希望、不屈の精神、創意、発明的工夫を孕んでいます。夢を描くならばあなたは創造するようになるのです。それと反対に、もしあなたが追い求める夢 を持たないならば、あなたは実りのない、感激のない、平凡な、想像力に欠ける、工夫のない世界という気力のない淀んだ人生を送ることになります。残念なが ら実際殆どの人がこのような生き方をしているのです!



夢のない人の世界は小さく閉ざされていて、日々の営みに束縛され抑制されています。彼らにとってのデスティニーは、夢を描 きプランを立て創造することではなく、ただ偶然によって支配されます 。しかし私たちのための神の計画は、人生のルーレットがよい所で止まって成功に行き着くことを願いながらそれを回すことではありません。私たちを造った方 は、私たちが夢を描きプランを立て創造することを願っておられるのです。

多くの人はただ「絶好のチャンス」を待っていたり、「見出される」のを待ち望んでいます。彼らはチャンスを信頼し、宝くじが当 たるのを期待しながら人生をさまよっているのです。それらは「夢」ではなく「幻想」です。神はあなたが幻想の世界で魔法の蜘蛛に咬まれてスパイダーマンに なるのを待っているような生き方をすることを望んではおられません。私たちは夢を見るものであっても空想の世界に住むのではありません。

聖書には夢のことが沢山出てきます。そして「夢を描く」と「創造する」という二つの概念が、同じ聖書中の単語に含まれることは 何かを私たちに示しています。yatsarという単語は「創造する」を意味し、その単語の変形であるyetserは「想像、考え、着想」という意味です。 Yetserは、思いの中で形造られる計画とか目的を指していて、それには勿論夢を描くことも含まれています。Yatsarはその結果としての創造の業で す。ですから創造する力は夢を描く力から出発するのです。

これこそまさに神が働かれる方法です。イザヤ46:10には、神は終りのことを初めから告げられるとあります。言い換えれば、 神は結果を見たり想像され(yester)、計画やデザインを造るバックアップをして、次に創造(yatsar)を始められるのです。即ち、神は夢を描か れ、次に創造されるのです。

夢を実現させる
同じように、神が人間を神のかたちに造られたとき、 思い描いて創造するという神の能力の一部を私たちに中に入れられました。私たちは思いや心の中で何かを孕む能力を神から与えられています。そしてそれは次 に、私たちの中に神が入れられた創造し革新する力を呼び起こすのです。神と同じように私たちは夢を描き、そして次にその夢を創造し生み出すのです。

ところで、 大きな影響力を持つ結果を持つ夢は、大きい必要はないのです。次の「取るに足らない」夢の例を見てください。紙が散らばるのにうんざりしたある人がクリッ プ(ゼムピン)を夢に描きました。夢は実現するのです!でもそれは何もしないでは実現しません。夢を描くことが創造力、新しい考え、行動、独創性を解き放 つ故に実現するのです。もしあなたが夢を描かないならば、あなたは創造しません。もし夢を描くならば、あなたは創造せねばならないのです。

必要は発明の母ではありません。夢こそが発明の母です!(おわり)

http://www.banministries.org/?p=2054

2013年3月8日金曜日

宗教の霊に打ち勝つ パート2


リック・ジョイナー

大いなる惑わし


宗教の霊の惑わしの性質の中の最たるものの一つは、それが人々の神への熱心さを土台にして働くということです。私たちは「神への熱心さが悪いことなどあり得ない」と考えがちです。しかし、「私たちの神への熱心さは何が理由か」ということが実は問題なのです。


パウロはローマ10:2で「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」と言っています。パリサイ人ほど熱心に祈り、断食し、神に関することに熱心であった人たちは世界中探しても他にはいませんでした。しかし、神に対して、またメシアなるイエスが来られた時に、彼らほど激しく攻撃した者もいなかったのです。

タルソの若者サウロが神の教会を迫害していた時、彼は神への熱心さに突き動かされていました。 本当に熱心な者を止めるのは難しいものです。そのような者に対する敵の策略は、彼らが熱心さのあまり行き過ぎるようにさせることです。敵の策略の第一ス テップは、彼らが自分の熱心さを誇るようにしむけることです。私たちに与えられた賜物や特質がいかにすばらしいものであっても、敵にそそのかされてそれを 誇るならば、私たちは敵の手に落ち賜物を悪用するようになるのです。


主が地上におられた時、 主にとって悪霊は全く問題ではありませんでした。悪霊がイエスに出会うとすぐさま主の権威を認め、憐れみを乞うたのです。驚くべきことに主の最大の敵と なったのは、熱心で保守的な宗教家たちのグループでした。神の御ことばに最も熱心であった者たちが、御ことばなるお方が肉体となって彼らの間に住まわれた 時、御ことばを十字架につけたのです。今もそれと同じことが起こっています。


すべてのカルトや偽りの宗教を全部合わせたとしても、今までに教会内に侵入した宗教の霊ほどには神の働きに対して攻撃をしたり阻んだりはしませんで した。カルトや偽りの宗教は容易に識別が出来ます。しかし宗教の霊は、 今までに起こった恐らくすべてのリバイバルやムーブメントを邪魔したりその道を曲げて来ました。そして今も殆どの教会の中で大きな顔をして居座っているの です。


宗教の霊が足がかりとする土台


他の多くの敵の要塞と同じように、宗教の霊は基本的に二つの土台の上にその働きを建て上げます。即ち「恐れ」と「プライド」という土台です。私たち がイエスの十字架を通して神に承認され受け入れられるという道ではなく、主に承認されるために自分が働くようにと宗教の霊はクリスチャンをしむけるので す。ですから宗教の霊は私たちと神との関係を、キリストの十字架による生け贄によるのではなく、自分の努力によって築かせようとします。このように私たち を駆り立てる動機は、恐れ又はプライド、あるいは両者が合わさったものです。

恐れとプライドは、人類が罪に堕ちたことよって起こった二つの根本的結果であり、それから解放されるためには通常長いプロセスを要します。主がイザ ベルにさえ「悔い改める時(黙示録2:20-21)」を与えたのはそれが理由です。聖書の中のイザベル(アハブ王の妻)は非常に宗教熱心な女性でしたが、 それは偽りの宗教でした。 彼女が悔い改めるための時を主が与えたのは、この霊の根が非常に深いからであり、完全に悔い改め解放されるには時間がかかるからでした。


しかしながら、主はイザベルに時間を与えはしましたが、テアテラの教会に対して、彼女をなすがままにさせていることを(20節)叱責しておられま す。私たちが宗教の霊を持つ人たちに対して忍耐することはよいのですが、彼らが悔い改めをするのを待つ間、 彼らが私たちの中で働くのを放っておいてはいけないのです! もし、この霊に対して早急に対処することを怠るならば、それは他のどんな攻撃よりも、教会 に、私たちのミニストリーに、家族に、又私たちの人生にダメージを与える可能性があるのです。


罪責感という土台


サムエルを育てた祭司エリは、罪責感を土台とした宗教の霊で神に仕えた人のよい例です。彼の主に対する熱心さは非常に激しかったので、契約の箱がペ リシテ人によって奪われたことを知らされた時、ショックで倒れ息絶えたのでした。彼は一生の間、大祭司として主に仕えようと努力した人でした。サムエルが 初めて預言を与えられた時、その預言は聖書の中で最も恐ろしいものの一つであり、しかもそれはエリに対するものでした。(1サムエル3:13-14)エリ の主への熱心さは、彼が父親として無責任であったことの代償として生け贄や捧げものをするという形であらわれていました。罪責感は主への熱心さに拍車をか ける作用をし、生け贄や捧げものは自分の失敗や罪を贖うためのものとなります。イエスの十字架のみが私たちの罪を贖うことができるのですから、これは十字 架に対する侮辱です。このような熱心さは、たとえ 生け贄を永遠に捧げ続けたとしても、決して主に受け入れられるものではありません。


主はここで「エリの罪は赦されることはない」とは決して言っておられないことに私たちは注目せねばなりません。主はただエリが生け贄や捧げものをす ることによって自分の罪を贖おうとする試みは絶対に成功することはない、と言われたのです。エリと同じように、 自分の罪や失敗、無責任な行動等を償おうと

することを土台とした主への熱心さをもつ多くの人々がいます。しかしながら、世界中すべての生け贄をもってしても、ほんの小さな失敗さえも贖うことはできません。


自分の生け贄によって神に受け入れられようとする試みは、宗教の霊にむかって大きく扉を開くことになります。なぜならばこのような奉仕はイエスの血 潮を土台としておらず、自分で罪の贖いをしようとするからです。もちろんこれは私たちが主を喜ばせるために働いてはいけないという意味ではありません。し かし、主を喜ばせたいという私たちの動機は、それによって自分が受け入れられるためであってはならないのです。主が喜んでくださることだけを目的とすべき です。一方は神を中心とした動機であり、他方は自分を中心としています。これは十字架を回避しようとするものであり、自分中心の非常に破壊的行為です。 (続く)

http://www.banministries.org/?p=2054

2013年2月22日金曜日

宗教の霊に打ち勝つ


リック・ジョイナー

パート1.宗教の霊を識別する

神の第一の命令は神を愛することであり、それが私たちに与えられた最高の賜物です。第二の命令は隣人を愛することです。律法全体はこの二つの命令を 守ることにより成就されると主は言われました。即ち、この二つの命令を守るならば、すべての律法を全うできます。(マタイ22:34-40、ローマ 13:8参照)


もし私たちが主を愛するならば偶像を拝みはしないでしょうし、もし隣人を愛するならば、妬んだり、盗んだり、殺したりはしないでしょう。ですから、 この二つの「愛しなさい」というポジティブな命令を守ることによって、 すべての「~するな」というネガティブな律法を成就することができます。


もし神への愛があるならば、それだけで私たちの心の中の殆どの悪を克服することができるでしょう。そしてそれこそが世の中の悪に対する最もパワフル な武器です。神を愛することが私たちの最も崇高なゴールであり、それが人生の第一の焦点であるべきです。サタンの教会に対する最大の偽り、致命的な打撃の 一つが、この究極的な追求の道から私たちをそらすことである理由は、実にそこにあるのです。敵の策略は、私たちが人生の「悪」にばかり目を留めるように仕 向けることであり、それによって私たちは、自分が見つめるものに似ていくことを敵は 知っているからです。(第二コリント3:18参照)私たちが「悪」だけを見ている限り、敵は私たちを自分の支配下においておくことが出来ます。私たちが主 を見つめ主の栄光を見るならば、私たちは主の似姿へと変えられていきます。


これは私たちが人生の罪や間違いを無視するということでは決してありません。実際に聖書では、私たちは自分自身をよく吟味して、いつも信仰に立って いるかどうかを吟味するようにと命じています。問題は罪が見出されたときに私たちがどう対処するかというところにあります。善悪の知識の木に答えを求める のか、それともいのちの木に行くのか、です。即ち、自分を改善することによって神に近づこうとするのか、それとも、イエスの十字架のもとに行き、赦しと罪 に打ち勝つ力をそこに見出すのか、ということです。

敵の一番の策略は、私たちが(人の)悪にばかり眼が行くように仕向け、それが善いとか悪いとか言う知識の木から食べるようにすることであり、そうす ることによって、私たちが主の栄光と十字架から目を離れさせることにあります。この敵の策略が「宗教の霊」という形でやって来ます。これは、私たちが神へ の真の愛と礼拝をしているかのように見せかけ、そう思わせる偽りの悪霊です。この悪霊は恐らく、 ニューエージやすべてのカルトが今まで教会に与えてきた打撃を全部合わせたよりも大きな打撃を、教会に与えて来ました。


宗教の霊の特質

宗教の霊とは、私たちが宗教的な活動を多くすればするほど、それが私たちの人生を通しての聖霊の働き(そのもの)であると思わせる「代替え、すり替 え」の悪霊であり、その一番の目標は「見えるところは敬虔であってもその実(power)を否定する者(第二テモテ3:5)」と教会を貶めることです。使 徒パウロはこの箇所を「こういう人々を避けなさい」という言葉で結んでいます。宗教の霊は「パリサイ人とサドカイ人のパン種(マタイ16:6)」であり、 主が弟子たちに警告されたものです。


主は喩えを用いて教えられることがよくありました。宗教の霊はパンの中のパン種のように作用します。パン種はパンに栄養を増し加えることはなく、た だ膨らますだけです。宗教の霊もそれと同じことをします。教会にいのちや力を増し加えることは全くなく、ただ単に人のプライド(これは最初の罪の堕落やそ れ以来のすべての堕落のもとになっているものです)を膨らますだけです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(ヤコブ4:6)」とい う真理を、サタンは教会よりもよく理解しているように思われます。神はプライドによって膨れ上がった人の業の中には住まわれないこと、神ご自身がそのよう な業を退けられることを、サタンはよく理解しています。ですからサタンの策略は私たちに(自分で事を行なうことに)プライドを持たせることであり、それが 良いことに関してのプライドであっても、例えば聖書を自分はどれだけよく読むとか、証しをするとか、飢えた人に食物を与えるとかということに対するプライ ドであってもプライドであることに変わりありません。もし私たちが神のみ心をプライドを持って行うならば、その業はかえって神の御国を阻むものとなり、つ いには堕落への道になりえることをサタンは知っています。


サタンは又、一旦パン種がパンの中に入ってしまうと、それを取り除くのは非常に困難であることも知っています。プライドはそれが持つ性質により、取 り除いたり矯正したりするのが最も難しい要塞となります。宗教の霊は、「神の御心や今神が言われておられる事、又何が神を喜ばせるかという事を自分はすで に知っている」と私たちに思わせることによって、私たちが神の御声を聞くことを妨げます。この惑わしは「神は私たち人間と同じような方である」と私たちが 思うことに由来します。宗教の霊は又、「聖書の中にあるすべての励まし、叱責、矯正の言葉は、自分のためではなく他の人々のためである」と聖書を理解させ るように働きます。


もし、宗教の霊があなたの問題であるならば、この本をここまで読んで来て「このメッセージは誰それにとってとても大切だ」と多分すでに考え始めてお られることでしょう。この本はあなたに必要であるからこそ、神はあなたに渡されたのだ、ということなど思いもつかないのです。しかし実際は私たちすべてに とってこのメッセージは必要であり、宗教の霊という敵は私たち全員が程度の差こそあれ 戦わねばならない相手です。この破壊的な力を持つ偽りの霊から解放され自由になることは私たちにとって不可欠であり、そうなるまでは私たちが主を霊とまこ とで礼拝することは出来ません。


この悪霊の非常に強力な惑わしから私たちがどれだけ解放されているかという度合いが、 私たちがどれほど力強く真の福音を語れるかどうかを直接左右します。教会が宗教の霊に立ち向かう戦いは、終末の時代における大きな戦いの一つとなることで しょう。すべての人がこの戦いの中に突入し、一人ひとりがどちらの側に属しているのかがこれから決められていきます。自分が暗闇から解放されていなけれ ば、人々を解放する権威を持つことは出来ません。この膨大な敵を克服し始めるためには、主が私たちの上に光を照らしてくださるように願い、宗教の霊がどの ように自分と関わっているかを示していただかねばなりません。主がパリサイ人たちと常に戦わねばならなかったことから明らかなように、教会が始めから最も 戦ってきたのは実はこの霊であるのです。パリサイ人の性質の中で最も顕著なものは、自分自身の欠点には盲目であるのに、他人の対しては悪いところばかりを 見ることですが、宗教の霊は私たちをそのようにしむけます。(続く)

http://www.banministries.org/?p=2041

2013年1月8日火曜日

聖霊と一つとなること

坂達也先生の新年ご挨拶から引用します。


2013年元旦に私の心に浮かんだ御言葉があります。それは、イエスが言われた「・・わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる・・・」(ヨハネ 14:20、新共同訳)と言う御言葉です。
考えてみれば、「イエスはクリスチャンのうちにいる・・・そして私たちも主イエスのうちにいる(住む)」と言えば、未信者には何のことだか訳の分ら ないことであると思います。しかし、クリスチャンにとってはこの言葉以上に重要な言葉はないと私は言い切ります。その理由は、先ず第一に父なる神とイエス との関係がまさにそのようなものであるからです。

ヨハネ14:10で主は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」と言われ、次の11節で「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と言われました。
ここで明らかなことは、御父とイエスの間ではすべてが通じあっていて、全く同じ考えと思いで「ことば」を話し、聞き、それを「わざ」として実行しておられると言うことです。
イエスは後日、弟子に15:4で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とも言われました。これはどう言う意味なのでしょうか。

そもそも主は最初の出会いから、弟子たちをご自分の住まいに招かれました。それは、この世における肉の「かたち」として「住み込み同居の関係」で生 きなければならないことを、主は弟子たちに敢えて実行して見せたのです。なぜなら、神と私たちの究極的な関係―それは霊的かつ永遠の関係―では、「神が霊 的に私たちの内に住む」ことが不可欠の条件であることを初めから徹底的にたたき込むためであったからです。それが私たち(父の息子・娘)と父との「霊的、 永遠の親子関係」であるのです。

実はこのことを、主は弟子たちに更に「大宣教命令」として明確に命令されました。マタイ28:18-20で、イエスは弟子たちに近づいて来て、こう言われます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

もう一度申し上げますが、イエスの弟子たちは当時、自分の職業も何もかも捨ててイエスの元に走り、住み込んで、一切の行動をイエスと共にしたのでし た。ですから彼らにとって「イエスの弟子になる」とはイコール「同居してイエスと共に行動する」ことであったのです。従って、主から「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命令された時、それが「神と同居する関係に育て上げる」意味であることを充分に理解していたのです。私たちは本当にそのことを理解しているでしょうか?

私はクリスマスにあたってフランジペン師の「キリストに似た者になること」の一文をご紹介しました。その中で、フランジペン師は創世記1:27「神 は人をご自分のイメージimage にかたどり、神に似せてlikeness 創造された。」を取り上げ、「神のイメージとはキリストである」こと、従って、そのキリストのイメージに似ることが私たちの存在目的であると言われたので す。
私たちは「キリストに似た者にならなければならない」と言う意味はまさに、私たちと主との関係が、密着した「住み込みの関係」でなければならないと 言うことです。全クリスチャンをそうなるように育てなさいと言うのが、主からの「大宣教命令」であって、単に信者にすればよいのとは全然違います。

さてそこで、今まで私が言わんとしたことが黙示録19:10に書いてある「・・・イエスのあかしは預言の霊です。」の意味に通じることを申し上げたいと思います。
イエスを証しすることとはどう言うことなのでしょうか。この御言葉は、色々に解釈出来ますが、元来、旧約聖書の預言も含めて預言とは、イエス・キリ ストを証しすることであり、イエスにすべての栄光を帰すると言われます。であれば、新約の時代でイエスの福音を語ることも預言のうちに含まれます。すなわ ち私たちクリスチャンは広い意味で皆預言者であり、私たちの言動のすべてがイエス・キリストを証しするのです。
預言とは何でしょうか。「神のことばを言われた通り忠実に人に伝えること」です。そうであれば、イエスこそが最も忠実で最高の大預言者です。なぜならイエス・キリストは「神のことば」そのものだからです。(黙示録19:13)
同時にイエスは父のことばをその通り実行されました。それが「わざ」です。それでは「預言の霊」とは何でしょうか。それは聖霊を指し、その聖霊が私たちの内におられるのです。
と言うことは、イエスはすべて父が語られたことをそのまま語られ、実行したように、私たちも同じようにしなさいと言われているのです。すなわち、私 たちもイエスから与えられた預言のことば、あるいは、イエスに関する福音を伝える際に、預言の霊である聖霊により、その時に与えられたことばをその通り忠 実に人に語り、必要な「わざ」をすることです。それが「イエスを証しする」ことなのです。最初に引用したヨハネ14:10、11で、「ことば」と「わざ」 が使い分けられていますが、ことばを伝え、それがなされるのが「わざ」であることを示しています。

そのために、私たちはキリスト(の霊)と同居する「真の弟子の関係」にならなければ、本当には「預言の霊」で人に福音の話をし、あるいは「わざ」で もって「イエスの証し」をすることは出来ないと思います。私たちクリスチャンはそこまで「自分の中に住まれるイエス」と親密になり、一致していなければな らないと主が言われるのです。勿論私などは、まだまだ程遠いと感じていますが、主は私たち誰に対してもに「そうなれるのだからやってみなさい」と要求され ておられます。一見出来そうもない私たちを助けて下さる方が万能の神である聖霊です。そうである以上私たちクリスチャン全員がやってみるべきで、これが主 からの命令であるのです。実行することによってのみ、私たちは主が期待する信仰に到達出来るのではないでしょうか。

 皆さんがよくご存知のように、上記のヨハネ14:10,11はその後に次のように続きます。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行 います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお 受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。・・・」 (ヨハネ14:12-14)

2013年は「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」と、主が約束され、私たちに期待されていることが実現し始める年となりますようにお祈りしております。そのためには私たちの内におられる聖霊と私たちが一つとなることが今年の最大の課題であると信じます。(終り)

2012年12月17日月曜日

指輪の話


ジュリー・ジョイナー
(2012年11月3日モーニングスター・女性カンファレンスでのメッセージから抜粋)

15年前ほども前になりますが、私にとってとても意味深い出来事がありました。私は主の花嫁であることを、主がとてもパワフルな方法で教えて下さったのです。
その時私は友人とロンドンに旅行していました。ある朝早く起きて、友人と二人でポートベラ・マーケットに買い物に出かけました。娘のために指輪を探すのが目的でした。 アンティークでかわいい指輪がいいと思いました。いろいろと見て回っているうちに、 とてもすばらしいダイヤモンドの指輪に目がとまりました。「すばらしい指輪ですね。ちょっとはめてみてもいいですか?」と店員にことわってはめてみると、本当に美しい指輪でした。そして値段を見てみると、高価で私にはとても買う事はできないと思い、指輪をもとの場所にもどしました。
それから2時間あまり、その指輪のことが頭から離れませんでした。最初は「絶対にあんな高価なものは買えない。」という思いでしたが、そのうちに、「絶対買えないってことはないかもしれないわ。」となり、次には「もしかして買えるかもしれない。」というように変っていきました。私の頭はそのような思いでぐるぐる回っていました。
 私はもともと宝石類にはあまり興味がない方です。今している真珠のネックレスは母の形見で、母の思い出に身につけているものです。他にはあまり宝石は身につけていません。ですからこの指輪をこのように真剣に自分のために買うことを考えるということは、私にとっては普通ではなく、簡単なことではありませんでした。でも何故かこの指輪のことが頭から離れず忘れることができなかったのです。

翌日私たちは、イギリスの戴冠式につかわれる宝石類の陳列を見に行きました。それは大層立派なものでしたから、あの指輪はそれにくらべればそう大げさなものではない、買ってもいいかもしれない、 主人もこの前モーターバイクを買ったし、と思いました。(笑) そこで私は家にいる主人に電話をして「ちょっと妙な話なんだけど、この指輪をどうしても買わなくてはならないという気持ちがするのよ。私を呼んでいるような気がするの。買ってもいいかしら?」とたずねました。主人は「私はそこにいないからわからない。あなたが決めればいいよ。」と言ってくれました。私は数日あの指輪のことばかり考えていました。 高価な指輪を自分のために買うのは崖から飛び降りるような気持ちでした。

私たちは小さなホテルに泊まっていたのですが、トイレは部屋にはなく、廊下の突き当たりにありました。その日の夜中に私がトイレに行くために廊下を歩いていると、主が私に語られました。「あなたの手を見てごらんなさい。」と。それで私は自分の両手を見てみました。右手の指には私が高校を卒業したときに両親からもらった指輪がありました。小さなダイヤモンドが幾つかついているもので、 とても大事で大好きだったので、 もらってからずっとはめていました。そして左手の指には結婚記念日に主人がくれた指輪をしていました。結婚した時主人は指輪を買うお金がなく、ずっと後になってくれたものです。私たちの5人の子供に因んで5つの小さなダイヤモンドがついています。
主が言われました。「あなたの手を見てごらんなさい。右手の指輪はあなたが両親から受けたもののシンボルです。それはすばらしく良いもの、美しいものです。左手の指輪はあなたが夫から受けたものを表しています。それも又すばらしいものです。でもこの指輪はわたしがあなたに与えるものであり、わたしがあなたの人生にあたえるもののシンボルです。それはあなたが両親から受けたものや夫から受けたものとは別のものであり、区別されるべきものなのです。そしてあなたがこの指輪を人生のすべての日にはめていることは、とても重要なのです。わたしのあなたへの愛、ただあなたへの愛がどれほど大きく、どれほど偉大であるかを、指輪を見ることによっていつも忘れないでいることが、あなたにとってとても大切です。」主の言葉を聞いて、私は深く感動しました。そしてこの指輪を買ってもいい、否、買わねばならないと決心したのでした。次の日、私からの連絡を受けて宝石屋が指輪を持って来てくれました。「一つの指輪を買うのにこれほど考える人はいませんよ。」と言っていました。
私はこの出来事により、 私たちがどのような所に立つ者になることを主が望んでおられるかに関する新たな思い、新たな理解、新たな洞察を得たのです。私はまだまだそのような者にはなっておりませんが、主は私をそこへ今日も導いておられます。毎日この指輪を見ることによって私はそれを忘れないでいることができます。この指輪は他の2つよりも大きくて、大きなダイヤモンドのまわりに12の小さなダイヤモンドがついているのです。

私は多くの人々に出会う機会がありますが、殆どの女性は自分の価値を計るのに、自分の人生の中の男性、即ち父親とか夫、が自分をどのように評価しているかを基準にしていて、いつもそれを気にしています。でも主は、このような思いから私たちを完全に解放したいと願っておられます。もしあなたがこのことについて考えたことがないのでしたら、一度じっくりと考えてみることをおすすめします。 主は私たちがそのような基準で自分を評価するようには全く計画されていなかったのです。
私たちの多くは、自分は人の役に立っているというよりは、人のお荷物になっているのではないか、と感じています。多くの者は、自分は計りにかけられて「足らない」と言われたように感じているのです。でも主は、そのような私たちの理解、思いを完全に変えたいと切に願っておられます。私がロンドン旅行から帰ってから、ずっと主は私に語ってくださっています。少し前に主は「あなたは女王です」と私に言ってくださいました。ボブ・ジョーンズ師は毎朝鏡を見て、「私はまことに美しい」と言うそうですから、彼がそう言えるのなら私も「私は女王だ」と宣言できるのではないかと思うのです。(笑)私たちは自分を卑下するような思いから解放してくださいと主にお願いせねばなりません。

私は人からよくこんな質問をされます。(皆さんは絶対しないでくださいね。)「ジュディーさん、リック・ジョイナーさんと結婚しているというのはどんな感じなんですか?」(笑) リック・ジョイナーは確かに素敵で私は彼を心から愛しています。彼はすばらしく驚くべき人だと思います。結婚して35年たちました。でも彼は神様ではないのです。(笑)彼は主ではありませんし、私の主でもありません。これはとてもシンプルなことですが、これを悟るのに私は随分長くかかったのです。というのは、私が彼と結婚したのは19歳の時でした。私は彼にどこまでもついて行こうとしましたし、彼が私のすべての必要を満たしてくれることを期待しました。彼を私の主としてしまっていたのです。それで私は自分と主との関係を深めるという努力をしませんでした。
そのような主人との関係は少しの間はうまく行きました。でもやがてうまく行かなくなったのです。うまく行くようには始めから計画されていないからであり、神が私たちのために備えられた道ではないからです。主は私をそのような場所からもっと前進させたかったのです。

主は第2コリント6:18で、「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。」と言われています。また、ホセヤ2:16では「その日、—主の御告げ。—あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。」とあります。
主はこのお言葉通りに私たちの父となり、私たちの夫となりたいと思っておられます。私たちの人生の中で、実際にそうなりたいと願っておられるのです。主はあなたの夫になりたいのであって、バアルにはなりたくないのです。私は夢の中でバアルを見たことがあります。それは本当にいやーな姿をしていました。夢の中で私はバアルに殺されそうになりましたが、一人の人が来て私のために命をささげ、バアルの霊と戦ってくれました。その人の姿はイエスのようではありませんでしたが、私にはそれがイエス様だとわかりました。イエス様は私がバアルの霊に打ち勝つように命を捧げてくださったのです。

バアルの霊はあなたをさげすみ、あなたを押しつぶそうとします。そしてあなたが自分を計りにかけて「自分は足らない者だ」と言うようにするのです。
みなさんの今までの人生がどうようなものであったか私はわかりません。一人ひとり違う人生を歩んできたと思います。酷い父親だったけれど、夫はすばらしい人かもしれません。やさしい父親だったけれど、夫は酷い人かもしれません。あるいは酷い父親で酷い夫かもしれないし、すばらしい父親ですばらしい夫かもしれません。或いは父親がなかったかもしれませんし、夫がいないかもしれません。
でも、そういうことはまったく関係ないのです。すべてのことに対する解決、答えはみな同じです。すべての傷の癒しがあり、傷に塗るギルアデの乳香があるのです。あなたは癒されて前に進むことができるのです。過去のことはもう終ったのです。
神が私たちの父であり、夫であることを知ればいいのです。神は絶対にあなたを虐待しません。神はすべてにおいて完全なすばらしいお方です。このことを神はあなたにしっかりと知ってほしいと切に望んでおられます。(終)

http://www.banministries.org/?p=1999

2012年10月23日火曜日

ワーシップと天使 - パトリシア・キング

パトリシア・キング

今日はジュリー・マイヤーさんに 私たちの賛美が天使にどのような影響を与えるかという彼女の考えをお話していただきます。天使のことに話すに際して、次のことを強調したいと思います。それは主イエスだけが礼拝されるべきお方であるということです。主イエスだけが私たちの人生の礼拝と奉仕の中心であるのです。私たちは天使の学びをするときに、バランスを失ってはなりません。それはあくまでもイエスが中心でなければならないからです。往々にして人々は天使のことを話すのを恐れています。なぜならば天使のことを話すと、イエスから目を離してしまうのではないか、と危惧するからです。

でも聞いてください。もし神が私たちに天使のことを学ぶことを望んでおられないならば、何故御ことばの中にこれほど多くの天使に関する記事があるのでしょうか。神は天使がどのように働くのかを私たちに知ってほしいのです。何故でしょうか? それは、天使も 目に見えない神の御国の一員だからです。その御国に私たちも住んでいるのです。あなたはボーン・アゲインした途端、神の御国の一員になったのです。あなたは今その御国の中に存在しています。あなたの住んでいる目に見えない神の御国の次元、領域には、天使や他の天の生き物が存在しているのです。勿論、神も目に見えませんが、そこに住んでおられます。

コロサイ3:1に「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。(set your mind on the things above)」とあります。天使は神に創られた被造物であり、創られたいのちです。ですから私たちは 見えない上にあるものの一つである天使にも思いを馳せるのですが、それは決して彼らを礼拝するのではありません。ここにバランスが必要となってきます。

でも 今は天使が私たちを訪れるシーズンであり、神はそのことを私たちが知ることを望んでおられます。あなたがワーシップする時、天使の軍勢も共にワーシップしているのです。あなたはそれに気がつかないかもしれませんが、最近私たちは天使の声を聞く体験をするようになっています。私は最近ハワイに行ったのですが、そこで私たちがワーシップをしていた時、私は天使たちが私たちと一緒に歌っているのを聞きました。それは違う次元、領域で起こっていたことなのですが、私の肉の耳が開かれてそれを聞くことが出来ました。

私たちが主イエスに目を注いでワーシップする時はいつでも、天のワーシップと一つになり、天のワーシップに力を添えることになります。それは永遠にイエスを誉め称えるワーシップとなるのです。何とすばらしいことではありませんか。あなたがイエスをワーシップする時は天使が御座の前で共にワーシップしていることを忘れないでください。御ことばの中に彼らが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。Holy, holy, holy」と歌っていることが書かれています。彼らは次々にイエスの偉大さ、素晴らしさを見出して賛美し礼拝せずにはおられないのです。主イエスがあまりにも大いなる方であり賛美されるべきお方であるからです。そして あなたのワーシップは天使たちを感動させ彼らの動きを活発にさせるのだと私は思います。ジュリー・マイヤーさんに彼女の経験を話していただきましょう。

ジュリー・マイヤーさん (International House of Prayer )の話

私たちがワーシップするときに天使がそれに合わせて歌うということに関して、私の経験をお話します。私たちはどこかですばらしいワーシップが行われているとそれに心を奪われ惹き付けられる事があります。
ある時、私はある教会で行われたワークショップに参加していて、そこに座っていたのですが、どこかからか人々がイエスを心から賛美しているワーシップが聞こえてきました。そのワーシップが私の心を捕らえ、私はじっと聞き入っていたのですが、とうとうそこに座っていることができず、ワークショップを抜け出して歌声の聞こえる方に行ったということがありました。そんな風にワーシップには人を惹き付ける力があるのです。天使ももしかしてそのようにワーシップに惹き付けられてやってくることがあるのではないかと、私は思うのです。

またある時、私たちワーシップチームが集まって練習をしていました。ハーモニーなどを話し合ってから歌い始めました。それは「練習」というよりは、本当に主を心から賛美するワーシップになって行きました。みんなが心から主イエスを愛していたからです。
すると窓のすぐ外にあった木に小鳥がなんと100羽くらい集まって来て、 一斉にさえずり始めました。あまりの騒がしさに、私たちは驚いて歌うのをやめ、小鳥たちの歌を聞いていました。私たちがすべてを忘れ委ねきって心から賛美をするとき、何かを得るためとか、何かを知るためとかではなく、ただただ賛美を受けるにふさわしい主にむかって賛美をするとき、その賛美の流れにすべてのものが惹き付けられてくるのではないでしょうか。
人間を除いてすべての被造物は創り主を知っています。私たちがただ主だけを見上げて何も求めないでワーシップするとき、小鳥たちが私たちのワーシップに引き寄せられたように、すべての被造物が引寄せられるのではないかと私は思うのです。
そして天においても同じことが起り、天使たちも私たちのワーシップに引き寄せられるのではないかと、私は思います。(終)

http://www.banministries.org/?p=1953

2012年10月5日金曜日

危機(クライシス)の目的 - グラハム・クック


私たちは危機的状況におかれたとき、神のもとにいくのです。そこから「神とともに歩む」ことを学ぶプロセスが始ります。即ち、「神はどのように考え られるのか、どのように語られるのか、どのように事をなされるのか」を学び始めるのです。イザヤ55:8に「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、 わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」とあります。私たちは神がどのように考え、どのように事をなされるかを知るまでは危機的状況から抜け出る ことはできません。


神は私たちを余りにも愛しておられるので、私たちを何の成長もなく現状のままにしておくことはされません。それ故に神は私たちに危機を与え、私たち に次の段階の霊的領域を与えられるのです。あなたが信仰の道を歩み続けるためには必ず危機を通らねばなりません。信仰の歩みとは私たちにチャレンジを与え 成長させるものです。私たちの信仰は単に私たちの必要を満たすためのものではなく、周りの人を助けることができる信仰を持つようになることを神は望んでお られます。


ですから神は私たちをいろいろと異なる方法でチャレンジを与え成長させるのです。第一サムエル記1章で、ハンナは危機的状況にありました。彼女には 子供が出来ませんでした。同じ家に住む彼女のライバルは子供を産み、ハンナを苦しめました。ハンナは預言的な祈りを神にささげました。子供を授けてくだ さったならばその子を主に捧げると約束したのです。そしてやがてハンナは妊りました。


危機は私たちの内に霊を確立させます。私たちは危機に立たされた時、主により頼むようになり、その中で神は新たな霊の場所を作られます。それは私た ちがそのプロセスの中で主の臨在ともっと親密になることです。主は私たちが弱さの中にある時私たちを呼んでくださります。もしあなたが弱さをおぼえたなら ば、喜んでください。あなたの仲間が沢山いますから。(笑)神は私たち弱い者を召してくださり、私たちには絶対出来ないことをするようにと言われるので す。理屈に合わないこと、とんでもないこと、神が助けてくださらねば絶対不可能なことをするようにと召されているのです。


ですから、神があなたを新しい領域へと召してくださる時には、必ず危機が含まれます。なぜならば危機は私たちに「自分は弱い」ことを明確に教えてくれるからです。あなたは自信がなく、不確かであるべきです。あなたは神からの課題をこなすには不十分であるべきなのです。


しかし、そのまま不確かで不十分でとどまっていてはいけません。もしそうならばあなたは何もしないでいるしょう。その場所で「自分は何もできない」 とぶつぶついうだけでしょう。しかし聖霊が来られ、あなたを不確か、不安な者(insecure)から、か弱い者、影響を受けやすい者 (vulnerable)へと変えてくださるのです。両者はあまり差がないように思うかもしれませんが、実のところこの差はとても大きいのです。


「不安  insecurity」の中では、あなたは固まってしまってあなたを成長させる機会となるチャレンジを受けることができません。しかしあなたが「か弱く影 響を受けやすい者 vulnerable」になることを学ぶならば、「私にはできません。でもあなたはお出来になります。」と告白することが出来ます。これこそすばらしいス タンスであり、安全なところです。神にむかって完全にか弱い者になり、私に力があるからこの召しを受けたのではないことを感謝できるのです。神は私が弱い からこそ選んでくださったのです。「神よ、あなたが何かをしようとされていることを信じます。」と告白して下さい。


私は神がどのように人選をされるのか不思議に思うことがあります。例えば、異邦人に初めて福音を伝えるのを誰にするか、どのように決められたので しょうか。どうしてペテロが選ばれたのでしょうか? 神が天使たちに「異邦人に福音を伝えるのは誰がいいだろう?」と訊かれたとします。そして「弟子たち を舟に乗せ、イエスに水の上を歩かせて、最初に舟から足を出した者にこの仕事を与えよう」と言われたかもしれないのです。(笑)私には分かりませんが、こ れがもし本当であったとしても私は驚きませんね。(笑)


神は危機を与えられ、そこからプロセスへと私たちを導かれます。危機はあなたが魂(soul)ではやっていけないように圧倒してしまうためのものな のです。それによって魂が自分が握っていた権限をあなたの霊の人(spiritual man)に明け渡します。その時私たちの内に次のことが起ります。


私たちの魂(soul)と霊(spirit)が戦いはじめます。私たちの魂も確かに神を愛しているのですが、あくまでの自分のやり方で愛するのであ り、魂は常に実権を握っていたいのです。救われる前、あなたはずっと魂で生きていました。私たちはみんな魂的soulishだったのです。あなたは神を求 めて霊的なことを探求をし始めました。しかしすべてのことを自分中心で自分の方法でしていたのです。そして聖霊によって新生した時、私たちの中で死んでい た私たちの霊が突然生き始めました。そして私たちの霊と魂は、どちらが主権を握るかを競い始めます。そしてついには外なる魂の人ではなく、内なる霊の人と して生きることを学ぶのです。


神は私たちを危機に突き落とされます。それはそれによって私たちの魂が霊の人に支配を明け渡すからです。私たちは内なる人に退くことを学びます。イ エスは「その人の心の奥底から(innermost being)から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。神があなたを全く新しい霊的次元、霊的領域に追いやるとき、神はあなたを危機に突き 落とすのです。あなたの魂が圧倒されて降参するからです。魂が「私には出来ない」と言う時、内なる霊の人が立ち上がります。そして神が私たちのために物事 を開き始めて下さるのです。


人生は常に「あなたの人生を支配しているのはあなたの魂か、それともあなたの霊か?」という点にかかっています。私たちは魂からでも何かとても良い ように見えるものを生み出すことが出来ます。でもそれには何の力もないことが多いのです。スタミナがありません。魂は直ぐにやめてしまいます。魂は支配し たいのですが、責任はとりたくないからです。魂も神を見出すことはできます。しかし霊の人は神と常につながっています。それによってあなたの心の奥底から 生ける水の川が流れるのです。あなたの魂が渇いてしまうその時、霊の人はどのように水を飲めばいいのかを知っているのです。


もし私たちが魂にだけとどまっているならば、それは「肉(flesh)」を起き上がらせてしまうことになります。肉とは、魂が単独で行動することで す。その時私たちは周りのあらゆるものから影響を受けてしまいます。霊の人は外からの影響は何も受けず、神からの影響を内に受けるだけなのです。何かが起 こったとき、あなたの前には「反射的に行動するか(react)」、それとも「応答するか(response)」の二つの道があります。人生の中では色々 な事が起こりますが、その時、あなたはreactすることもできます。即ち、「悪いことをされたら 仕返しをする、パニックになる、怒る、恐れる、苦々しく思う」というような反応です。それは魂が自分だけで立ち上がり自分で自分を防御しようとするからで す。しかしあなたは別の道として「神がその時されていることに対してresponseすること」もできるのです。霊の人はresponse する道しか知らないのです。魂はreactすることしか知りません。その人が人生の出来事にどのように対処するかを見れば、その人がどこにいるのかがよく 分かります。


「その人を落ち込ませたり、いらいらさせるためにサタンがどれほど努力をせねばならないか」によって人の成熟度を計ることができます。もしあなたが 容易にいらいらしたり怒ったりするならば、あなたの中には誰が住んでいるか考えてみてください。あなたは成長する必要があるのです。魂から生きるのをやめ ねばなりません。魂からではなく霊から生きることを決断する時です。神に応答してあなたが霊に中に退き、あなたを攻撃してくる霊と全く反対の霊にならねば なりません。例えば「怒り」があなたにむかって襲ってきたならば、「平安」があなたから流れ出ます。あなたは敵と反対の霊で動くのです。「何が起こってい るか」にとらわれるのではなく、「神は今なにをしておられるのか」にとらえられなけねばなりません。そうしてあなたは神の高きやぐらへと退くのです。そこ は安全で平安です。「神というお方」の中へと退いて、そこで待つのです。周りの状況にreactしないで神にresponseするのです。


そのようにあなたの霊が神の中に退いて最初にすることは、神を礼拝し始めることです。神に感謝し始めることです。なぜならば今あなたにすばらしい機 会が訪れたからです。それが何であるかを悟るためには、あなたはまず平安の中に入らねばなりません。あなたが出かけて行って物事にチャレンジするのではな く、神の臨在の中にとどまり、ただその中にいるのです。いつでも神に届く場所から私たちは戦うのです。神の憐れみ、慈しみ、恵みの中で生き、そこから生け る水の川が流れ出るからです。


霊の人は何が起ころうともキリストの内に確立されているのです。危機の中で私たちがどれだけ神の内にとどまることができるかというキャパシティー を、神は見ておられます。危機は「あなたが何者であるか、どのような者であるか、これからのシーズンにどれだけ神のために働くことができるか」を計る大き なテストです。危機によって私たちは神にしか助けられない所へと連れていかれるのです。危機の目的、ポイントはまさにそれです。私たちが弱くなり神に全く より頼むという所へと私たちを再び引き戻してくれるからです。


あなたが霊から生きることを学んだならば、危機はやがて減少していきます。あなたが魂から生きて物事を自分でしていた時、あなたは自分ですべてを支 配していました。しかし、霊の人はすべてを神にささげ、神に仕えるだけで幸せなのです。魂は「御父よ、今の状況を感謝します。この厳しい状況を克服できる ようにあなたが私に力を与えてください。それによって私が何々と何々と何々が出来るようにしてください。」と祈ります。よい祈りのように聞こえますね?  しかし霊の人は全く違う祈りをします。「御父よ、今の状況を感謝します。あなたが来てくださらなければ、私はこの中で何の力もありません。どうか私のとこ ろに来て私の力となってくださるようにお願いします。それによってこの困難な中であなたが私を通して働かれますように。」と霊の人は祈ります。


魂は「自分で働くことができるように力をください」と祈るのです。でもこれは正しい祈りではありません。神があなたを危機に突き落としたのは、あな たに何かをして欲しいからではなく、神があなたのために何かをしたいからなのです。魂は自分が力を受けて自分で何かを成し遂げたいのです。霊の人は「私は 何もできません。私の内に来て私の中であなたがされたいことをしてください。」と言うのです。自分で出来るための力を求めるのではないのです。神はずっと 長い間あなたを弱くするために労してきたのですよ。だから今さらあなたに力を与えることはなさいませんよ。(笑) 神はあなたのところに来られて、あなた の源となりたいのです。あなたの中で生き働きたいのです。霊の人は神に実権を渡すのですが、魂は神が与えた仕事を自分の支配のもとでしたいのです。ここに 大きな違いがありますね。


私たちがより良いものへと変えられるために危機を通され変革されるときには痛みを伴います。しかし、何も変らないで成長しない苦しみの方がはるかに大きいのです。(終り)


(Reclaiming Your Inner Territoryの講演より抜粋)
2012-10-1

http://www.banministries.org/?p=1944

2012年9月11日火曜日

主の臨在を尊ぶ − ビル・ジョンソン

私たちは「御国を来らせたまえ」と祈りますが、天国の一番の特徴は「神がそこにおられる」ということです。神は光であり、神が臨在される天国には影はありません。そしてすべてのことは神を中心とし、神が喜ばれるように行われます。すべてのことは神により、神のために、神ゆえに起こるのです。もし私たちが「御国と同じことが地でも起こるように」と祈るのならば、この地でも神の臨在こそを宝として尊ぶべきです。

もし、教会がこの真理を中心にして機能するとしたらどうでしょうか。残念ながら、この数百年、もしかしたら1800年間くらいかもしれませんが、教会は毎週「説教」を中心として集まってきました。けれどもイスラエルは「主の臨在」の周りに宿営していたのです。もし神が私たちの教会のやり方を劇的に変えようとしておられるとしたらどうでしょうか。即ち、「一人のお方」を尊ぶというやり方に変えるのです。

神学的に「2人、また3人が主の名において集まるところには、主もいる」と宣言することは出来ます。又、確かに主は私やあなたの中におられます。しかし、主のマニフェステイション(臨在の顕れ)というものがあり、それを私たちはお迎えすることが可能なのです。それは自動的に起こることではありませんが、実現可能なことです。私たちは主の臨在をお迎えしてそれを尊び、敬い、祝うことができます。その時、私たちは聖霊のパートナーとなり、聖霊がしておられることを私たちもすることができるのです。

主イエスは御父がしておられることを見たことだけをなさいました。御父が言われることだけを言われました。イエスに臨まれた聖霊によってそのような霊的領域がイエスには開かれていたのです。

私たちはアジェンダを持っていますし、それは良いことです。それらは御国の法則を私たちが取り入れているものです。例えば「人々をキリストに導く」というアジェンダを考えてみましょう。これは意味のある正当なアジェンダです。その法則を用いて私たちは集会で人々を導くことができます。しかし、もし私たちが「主の臨在」から機能することを尊ぶならば、「法則」から機能するより優れたものとなります。もし「主の臨在」から機能することをあなたが学ぶならば、魂の収穫はもっと著しいものとなります。

癒しを例にとってみましょう。私は「癒しのために皆で祈りましょう」と会衆を導くこともでき、その時癒しも起ります。しかし癒しの力がその場に強く臨み、会衆全体を覆うことがあります。主の癒しの力が臨んで癒されるのです。そのような臨在による癒しは爆発的なものとなります。

主は一人ひとりにユニークな賜物をくださっていてそれにスポットライトを当ててくださいます。あなたと私は違う賜物を持っています。そして私たちに与えられている「賜物の法則」から機能する方が、「主の臨在」から機能する(ことを学ぶ)よりもやりやすいかもわかりません。
しかし、法則から機能すると、私たちはもっと労せねばなりませんが、臨在から機能する時、その結果としての実は途方もなく大きいのです。この違いを学ぶことは大きな意味があります。

主の臨在への敏感さを、ミニストリーのための必要性だけから会得することは出来ません。それでは「professional intimacy 職業上の親密さ」とでも言うべきものになってしまいます。むしろ何もミニストリーの必要性がないとき、アジェンダがないときにこそ、真に主の御声を聞き、主の臨在を尊び感知することをあなたは学ぶべきです。
もしあなたがミニストリーの中でだけ主の臨在を知るならば、それは非常に限られたものとなります。神の御声を聞くことに関してさえ、あなたはprofessional 職業的なアプローチしか出来なくなってしまいます。
「主よ、次は何をしたらいいでしょうか?」「主よ、何を祈ればいいでしょうか?」「主よ、どう預言したらいいでしょうか?」と言う具合にです。
これらは勿論、正しい質問であり正当で必要なことですが、すべてミニストリーのために御声を求めるということです。けれども神との真の親密さとしてはどうでしょうか。神の御声を求めるのは、私たちが何かミニストリーをする時だけであってよいのでしょうか。


「業、働き」をすると称賛を受け、うれしい気持ちになります。自分の働きが役に立ったという喜びを感じます。これは悪いことではありません。しかし、あなたが主の臨在から機能する時は全く違うのです。
ある時、私は1500名ほどの癒しの集会のメインスピーカーとして招かれました。集会の最後の私のメッセージがかなり長くなり、人々が癒しの祈りをはやく始めて欲しいという気持ちを持っていることを強く感じました。
私はワーシップを一回だけ短くするように導かれました。するとワーシップの霊が私に臨み、私は歌うこと止められなくなりました。心の中では早く止めて癒しの必要な人のために祈らねばならないと思うのですが、ワーシップを続けることが御心であることがはっきり分かりました。ある時点で私は「癒しの祈りは今日はしない」と心に決めました。
主催者側から祈りに入るようにというプレッシャーはかかりませんでした。しかし私は「講師として期待されていることをせねばならない、責任を果たしたい」とう思いがあったのですが、それを断ち切ったのです。更にワーシップを続けて3、4分たったとき、主が突然私にあることを思い出させてくださいました。それはその日私が集会所に入ったときに主が語られた「deafness 耳が不自由なこと」という言葉でした。その瞬間、主がワーシップを止めなさいと言われていることがわかり、私は会衆にむかって「聴覚に不自由を覚えている人は手を挙げてください。」と言いました。すると82人の人が手を挙げたのです! 主の臨在が部屋の中を覆いました。そして聴覚の神経が癒される等、著しい大いなる聴覚の癒しが起りました。もし私が法則から癒しを行ったならば、もっと時間を要したでしょう。主の臨在を尊ぶことはこのようにパワフルなことであると思います。


人を尊ぶ

私たちの教会で起こっていることをお話します。
第一ヨハネ4:20に「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これはナチュラルな肉の世界で実行出来ていないことを、目に見えない霊の世界で実行していると言うことはできないことを言っています。もし私たちが「神の臨在こそ一番尊く価値がある」と言うのであれば、私たちの個人的な生活、人間関係、団体生活において どのように人々を価値あるものとして取り扱うかが大変重要な問題となります。人に接するとき、私たちは「その人がキリストにあってどのような人か」を常に土台として接せねばなりません。

次の2つの理由から地上のすべての人を私たちは尊ぶべきです。

1.すべての人は神に似せて、神のかたちに創られている。
2.すべての人は神から賜物をいただいている。たとえ神を敬わない人であっても 美しい歌をつくることができるのは何故でしょうか。 以前私は彼らはサタンからタレントをもらっているのだと考えていましたが、そうではないのです。彼らも神に似せて創られているのであり、神が賜物を与えたのです。たとえ彼らが神を否定し、或いは冒涜したとしても、賜物は神からのものです。

イエスがナザレで奇跡を行えなかったのは、人々がイエスを預言者として尊ばなかったからです。彼らは神の霊がイエスに下っているのを認めることができませんでした。もし私があなたを人間的なレベルで尊ぶならば、それはよい真っ当なことです。あなたを尊ぶことを通して私は神を尊んでいるのです。
しかし聖霊があなたの上に臨んでおられる時、聖霊があなたの中で働いておられるのを見る時、又あなたの上に超自然的な神の恵みが臨んでいる時、もし私があなたを尊ばないならば、私は神を尊ぶチャンスを逃したことになります。

完璧主義(perfectionism)は「宗教」であり、優秀さ(excellence)は「御国」なのです。「宗教」の中では、私たちは人が完全であることを要求するのです。「人を尊ぶ生き方」では、ある人が「〜ではない、〜が完全にできない」ということに目を留めるのではなく、その人をその人としてあるがままに喜び祝うのです。
自分の子供のことを考えれば分かると思いますが、音楽の才能がある子に「お前は数学ができない」と言って叱る親はいないと思います。私たちは神が一人ひとりに下さっている賜物を喜ぶのです。

キリストのからだの中においても、神の霊が人の上にとどまって恵みを与えておられることを知り、そのようにお互いを取り扱うならば、多くの傷は癒されるでしょう。ある人は神の御声を聞くことができるけれど教会運営は下手だということがあります。その時は運営の賜物のある人が手伝えばいいのです。

教会がこの真理をつかめば大きな変革が起ります。主はまずご自分の家から変革されねばならないのです。そうすれば私たちは変革する力をもって社会に出ていくことができます。これによって私たちの住む街が変っていきます。政治、教育、ビジネルの分野ではこのことがすでに起こっています。
即ち社会の人々を喜び祝う(セレブレイトする)のです。勿論、人々がキリストのもとに来ることはどうでもよいということではありません。しかし、ビジネス界の人たちが大きなリスクをとりながら成功し社会に貢献しているのですから、その人は尊ばれるべきなのです。今まで教会はその人が救われて教会の会員にならなければ興味がないような態度をとってきました。

大きな犯罪を犯した人が私たちの教会で救われました。裁判官は彼が悔い改めて全く別人にようになったことを認め、本当ならば20年の刑に処せられてもおかしくないところを6ヶ月に減刑してくれました。私はその裁判官に感謝の手紙を書きました。又、古くなったアパートを建て替えて人々が住めるようにしたビジネスマンにも私は感謝の手紙を書きました。教会がこのような人々を尊ぶことは希有でした。先の裁判官も誰かから感謝の手紙をもらったことは初めてだったと言っていました。

私たちの街で「人々を尊ぶ」ことが始まり、例えばレストランでも私たちは励ましの言葉を語ります。よいサービスを受けたときにはウエイトレスや店主に賛辞を送り、チップも沢山します。時には食事代よりも多いチップをあげることもあります。そして私たちの街によいレストランを下さっている神に感謝します。私たちはいつも人々を喜び祝うチャンスを探しているのです。これによって人々の考え方が変革されてきています。

私の妻が買い物をしてレジに行ったとき、レジの人が妻のハンドバッグがすてきだと言いました。そこで妻はハンドバッグの中身を全部だして、バッグをその人にあげたのです。これは「気前がいい、generous」という以上にその人を尊ぶ、honor」ということなのですが、確かに 気前がよくなければ人を尊ぶことはできません。

祈り:主よ、すべての場所において人を尊ぶ姿勢を広める人となりますように。あらゆる状況の中でも主の恵みを持ち運ぶことができますように。天に住む者のように行動し生きることができる恵みをお与えください。あなたの臨在から生きる者として、人々を価値ある者として尊ぶことができますように。
主のレーマの言葉を語り、人々の心を主にひきつけることができますように。
クリスチャンに反目していた人々が作っていた壁も「人を尊ぶ生き方」が浸透していったとき、溶けてゆきました。そして街にいのちが吹き込まれました。「人を尊ぶ生き方」がどんどん伝染して広まりますように。
キリストのからだがそのマントル、油注ぎを受け取ることができますように。「 まず福音を語らねばならない」という宗教的プレッシャーをかけることなしに、人々を喜び祝うことが出来ますように。
教育、政治、ビジネスの分野にこの変革の力が解き放たれますように。(終リ)


2012-9-2
http://www.banministries.org/?p=1931
2012-9-10
http://www.banministries.org/?p=1933

2012年7月18日水曜日

神からの崇高な召し


リック・ジョイナー

私たちがただ人々の後についていくのではなく 、各自主との交わりを持たねばならない理由が 、雅歌に書かれています。雅歌は特に人生の目的を王なるお方の花嫁となることにおいている人たちのために 書かれています。そのような人全員が学ぶべき鍵となる節は、雅歌1:7です。

「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

もし私たちが仲間の群れの中に入っているだけならば、顔おおい(ベール)はつけたままで、ぼんやり主の栄光を見るだけであり、主の栄光によって変え られることはあまり起こらないのです。私のミニストリーのゴールは人々を私個人の弟子にすることでは決してなく、常に出来る限りすべての人がキリスト・イ エスご自身の弟子になるように助けることであるのは、この理由によります。

ヨハネ10章からもわかるように、主の声を知っているのは主の羊であって 子供の羊ではありません。私たちが主にあって幼い間、主の声が分かるようになるまでは、他の人たちの後をついて行かねばならないでしょう。しかし、私の願 いはまず私のベールが取り除かれることであり、それによって人々のベールをも取り除く助けをしたいことです。私たちがただ単に主イエスの友である人に似る のではなく、主ご自身に似る者と変えられるためには、私たちは主を見る必要があります。

ある人の子供達全員が彼の親友に似ていたとしたら、その人はどう思うでしょうか? もしも私たちリーダーが、人々を主にではなく自分の型にはめよう としているとしたら、一体自分は何をしようとしているのかをよく考える必要があります。私たちの人生は人々にとってよいお手本となり得ますし、またそうあ るべきです。しかし使徒パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている。」と言っています。これこそ私たちの目標です。

25年前に主から見せられた大収穫のヴィジョンの中で私が非常に励まされたことの一つは「今までに存在した中で最もパワフルなメッセンジャーの世代 が起り、彼らはすべて『御国のための宦官』となる」ということでした。これは肉体的な宦官ではなく霊的な宦官を意味しています。肉体的な宦官は花嫁への願 望は持ちませんが、自分が仕える王が花嫁を喜ぶのを見て満足する者たちです。彼等は主の宦官となるのです。彼らの願望のすべては、王なる主が花嫁なる教会 を喜ぶのを見ることです。彼らは教会が、自分や他の誰かではなく、主ご自身が望まれるものになるのを見るために献身するのです。彼らは花婿の真の友です。

聖書の中に「神の孫」がいないのにお気づきでしょうか? すべての人は神にとって一代目の子供です。私たちのミニストリーの究極的な目標は、私たち に何が起ころうとも(死んだり、いなくなっても)私たちが教えた者たちが神を追い求める歩みを一歩たりとも踏み外したりしないことです。彼らが、私たちの 教えではなく決して失望させることのない主との関係の上に基礎をおいていれば、彼らは揺るがされることはありません。

先述のように、子羊(新し信者)は、羊飼いなるお方を知り主の声を十分知るようになるまでは、他の羊のあとをついていかねばなりません。ですから成 長するまでは他の人についていくのは間違いではありません。しかし、真の霊的成熟は、 単に主を信じる人と親しくなるからではなく、主ご自身との親密さの結果として起こるのです。

ですから、私は常にどのような成長過程にある人にも理解し受け取れるように書き、又教えるように努めていますが、どのメッセージの中にも使徒パウロ が「キリスト・イエスにある神からの崇高な召し the high calling of God in Christ Jesus (ピリピ3:14)」と呼んでいるものを追い求めている者に対する招きの種をも蒔いています。先述のように、ピリピ3章でパウロが「私はすでに得たのでも なく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っているのは、救いとか贖いのことを言っているのでは ありません。それらのものは彼がキリストの贖いの犠牲を信じたときにすでに受け取っていました。パウロは人生の終盤においてもまだ 崇高な召し(high calling)―それを受け取るクリスチャンは非常に稀ですーに到達したとは思っていました。崇高な召しを確実に知っているものはこの人生で得られる最 高の宝です。これこそ私たちがこの人生で究極的に捜し追い求めるべきものです。    (終り)

2012-7-16
http://www.banministries.org/?p=1906



2012年7月10日火曜日

自分の箱から抜け出る


ジョン・ベルト

1.重い荷をおろす
今のシーズンに神は 「自分の箱から抜け出す」新しい方法で物事を行うように、教えておられます。「あなたの」やり方にだけに固執して固まってしまわないで、神のやり方を学び しっかりと受け取ってください。それはどういうことでしょうか? それは物事をこの世が考えるようには考えないということであり、又、この世が「正常・普 通・ノーマル」と呼ぶものをそのまま受容しないということです。私たちは、自分の召しを妨げるものがあるならば、何であってもそれを捨て去ることをいとわ ないフレッシュな福音のメンタリティーが必要なのです。
神はご自分の召しに喜んで応答する人々を求めておられるのです。取税人マタイや他の弟子のことを考えてみてください。イエスは「わたしについて来な さい。」と言われましたが、その時イエスに従った人々がどのような犠牲を払ったのか、という詳細を私たちは知る事はできません。

マタイ11:28-30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心 優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負い やすく、わたしの荷は軽いからです。」
この召しに応答した者だけが発見できる隠された宝があります。マタイにとってそれは、この世のシステムの中で取税人(退屈な仕事)として働いていた ことからの解放でした。神は私たちを福音の冒険の人生へと招いておられるのです。それは私たちの想像をはるかに越えたすばらしいものです。私たちが神の招 きに応答したとき、神は人生のすべての重荷を取り去ってくださいます。マタイは大きな重荷を負っていたと私は思います。退屈だけれどいろんな心労があった ことでしょう。彼が主に従うことを選んだとき、今までのすべてのものを後にしました。イエスの負いやすいくびきを受け取ったとき、彼の重荷は過去のものと なりました。重荷の代わりに イエスのそばで 神の栄光を経験することを選んだのです。

つまるところ「私たちは何のためにここにいるのか?」という問に行き着きます。何か意味があるのでしょうか? 私たちはここで天に宝を積み上げてい るのでしょうか? それとも地上での報いを求めているのでしょうか? イエスが「わたしについて来なさい。」と言われているのに、尚も私たちは自分の栄誉 を求めているのでしょうか? 主は重荷を取り去ってくださり、すばらしい喜びといのちと平安へと導いてくださいました。福音は今も変らず「良き知らせ」で す。それをあなたは常に心に感じていますか?

2. 天の戦略を用いる時
私たちは今、神が典型的な方法とは違う、かえってそれに反するような新しい戦略を、私たちのために解放しようと願っておられる時に生きています。も のごとの成果をあげることができるやり方があるのです。 多くの者は、何回も同じことを繰り返し同じ結果を見るという宗教的なパターンにはまってしまっていて、 新しく新鮮な違ったものを学んでいません。このように宗教の型にはまってしまった者は、冒険や新しいこと、違った方法を恐れ、自分たちの平安を保つために 他の人たちをも抑えつけてしまっているのです。不幸は仲間を求めるのです。「恐れ」が持つ大きな特徴の一つは、「支配、コントロール」です。恐れを持つ人 は自分のために物事を安全に守るために自分で物事をすべてコントロールせねばなりません。 主に信頼し物事を委ねることができず、それらを自分の手中の支配下におさめておきたいのです。

箴言3:5-6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

主に信頼することを学ぶならば、私たちは物事に対して新鮮な捉え方をすることができるようになります。自分の小さな箱の中にいた私たちは、主を信頼 することを学ぶと、箱から這い出て、箱の中の暗闇ではなく青空と日の光を見るようになります。 神が見られるのと同じように私たちが物事を見るようになるときに、それが起こるのです。神は私たち一人ひとりのために、命を解き放ち神の愛と臨在を持ち運 ぶものとするブループリントを持っておられます。主に古い場所から出してくださるようにとお願いしてください。自分の考えがもしかして間違っていないかど うか、よく考えてください。あなたの考えは、もしかしてこの世で受け入れられている人間的なものでしょうか? 神はもっとよい道を持っておられるのでしょ うか? そうならば、天からの新鮮なブループリントを得るために何かを捨てる必要がありますか? それを喜んで捨てる用意がありますか?

3. 「しかり。」というハーモニーの経験
第二コリント1:20-22 「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と 言い、神の栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」

私たちが神のご計画に参加するとき、それが私たちのための主のベスト( 最善)であるという証印として主からの「しかり。」を受けるのです。「良いこと good」は「最善のこと best」の 敵です。自分の人生のための神からの最善の計画を私たちが発見するとき、 私たちを承認してくださる主の声を聞くという更にすばらしい経験をします。私たちが聖霊と一致し調和を保つとき、聖霊は神が承認しておられる啓示の中へと 私たちを導いてくださいます。イエスは神の承認の声を受け取られました。それはイエスが神の御子であったからではなく、主が父の御心の願いに一致して歩ま れていたからです。父の承認の声がさらに明瞭になる、的確で優れたときがあります。それは私たちが父の声と願いとに全く一致するときに起こります。

4.ふたつのものの合計
先月のある日のこと、私は自分の息子がなんとすばらしく形造られているかと驚嘆しながらながめていました。その時、彼は「ふたつのものの合計」であ るという考えが浮かびました。ふたりが一致するときに力があります。一人のときの能力は限られていますが、私たちが神の思いと心に一緒になるとき、私たち が達成できることは無限となります。イエスが「ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」と言われたのはこの理由で す。使徒行伝を見ると、弟子たちはふたり一組になってでかけました。神はご自分の力が解放されるように 一致し一つになる人びとを求めておられるのです。私たちが同じ思い、同じ心となるときに、神はとてつもなくすばらしいことがお出来になるのです。バベルの 塔の話を見るとき、神は彼らに出来ないことはないと言われました。

創世記11:6「主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』」

彼らは同じ言葉を話し一致して、サタンの力によって働いていました。私たちが聖霊の力で一致して働いたならば、どれほど不可能なことがなくなるでしょうか?

5. 敬う霊
第一ペテロ2:17「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」
聖書はすべての人を敬いなさいと言っています。もしこれは信仰を持たない人をも含むとすれば、信仰を持つ人を私たちはどれほど敬うべきでしょうか。
人を敬うとはどういうことでしょうか? 神は私たちすべてに、人を敬う機会を与えてくださいます。ダビデはサウロの上着のすそを切り取った時、罪の 責めを感じました。そして心を痛めました。あなたは誰かの悪口を言った時(その人が間違ったことをしたとしても) 心が痛みましたか? 私たちは蒔いたものを刈り取るのです。もし風を蒔けば、つむじ風を刈り取るのです。私たちの口は人々を祝福するためのものであり、 人々をのろうためのものではないのです。

あなたは「あの人は悔い改めるべきだ。」と思っているかもしれません。人々を悔い改めに導くのは神の慈愛だということをご存知でしょうか? 神の慈 愛を人々の人生の上に祈ってみてください。人々のうわさ話をするのではなく、彼らの上に神の愛、慈愛、憐れみが注がれるように願ってください。それとも、 私たちは自分の苦々しい思いの故に、人が変えられるのを望んでいないのでしょうか。

多くの場合、人々は他人のために祈るよりはうわさ話をするほうを好みます。 祈祷会が「うわさ話の会」になってしまっているものもあります。人々は自分の意見を吐き出す場所を探しているのです。もしこのようなことが起こっているの を見たならば、その場ですぐにはっきりと言わねばなりません。その人がいない時にネガティブなことを言うならば、その人を暴露し辱めることであり、それは 裏切り行為なのです。

神はこのようなことを喜んではおられません。人を敬うこころを持つようにしてください。人を辱めることを言う人を避けるようにしてください。自分を 清く保ってください。そして神の愛と慈愛がそれらの人に降り注がれるように祈ってください。密室で人を敬うとき、神はあなたを公の場で敬われます。あなた の言葉が塩で味付けされているようにしてください。塩は清めるものです。ものを保存し、癒し、回復させます。
神は忠実なお方です!(終り)

WWGM 2012年7月6日
http://www.banministries.org/?p=1903



2012年6月28日木曜日

今から9月までは物事を完成させる時


ダグ・アディソン

私の母は、神を愛し、熱心に祈り、聖書をよく学んだすばらしい女性でした。母は 脳腫瘍が原因で1999年に亡くなりましたが、天において今なお私の最も大事なとりなし手の一人となっています。私は母から伝道者として召しと、母が毎日 の祈りと学びのために使っていた聖書を遺産として受け取りました。

そして今年になって、私は母の聖書と非常に興味深い超自然的な出会いを経験してきました。まず聖霊が私に一つの聖書箇所を語られるので、そこを母の 聖書で開いてみると私に驚くべき預言的な洞察が与えられる、という具合なのです。私はそこに私のために書かれたとしか思えないようなことを母が書き留めて あるのを何度も見つけました。母が15年以上も前に書いた小さな覚え書きが、母の死後何百万人もの人々を勇気づける助けをすることになるとは、母は思って も見なかったことでしょう。

15週間の完成の期間
2012年6月12日に、 傍にあった母の聖書を見たとき、神の御霊が「ハガイ書」というのを私は聞きました。ハガイ書は神が神殿を再建するようにとご自分の民に言われた預言の書で す。この時私に与えられた預言的洞察は、「次の年、神は私たちの人生に驚くべき祝福と目的をもたらすことへと私たちを召しておられる。しかしまず、まだ未 完成なことを完成させねばならない。」というものでした。

母の聖書のハガイ書のところには、「15週の期間」と書かれていました。これが預言的な言葉であることが分かったので、私はカレンダーを見てみまし た。すると6月12日から15週間後は9月25日の火曜日でした。そして興味深いことに、それはユダヤ暦のヨム・キプルにあたっていました。これは「贖罪 の日」とも呼ばれ、神が私たちの人生を調べて昇格や霊的な発展を与えてくださる日です。私たちは最早ユダヤの律法や祭日の下にはおりませんが、神は今でも ユダヤ暦で働いておられ、多くの祭りは預言的な意味を持ち続けています。

6月12日から9月25日までの15週間は、 今まで神がするようにと言われていたのに 完成させないで放っておいたことを完成させるために開かれた戦略的チャンスの窓です。今は物事を完成させ、完結させるために一生懸命に働くときです。なぜ ならば、神は新しい任務をこの9月に解き放たれるからです。今は神が私たちに与えておられた仕事をよく考えて思い出し、それをやり遂げる時です! 今はあ なたがデスティニーに到達するのを推進するエクサイティングな時なのです。
私自身も、まだ達成していない幾つかの事があります。一つは「Understand Your Dreams Now あなたの夢を今理解する」という本を完成させることであり、それは9月末に出版される予定になっています。この預言に対して私たちがするべき対応 は、まだやり遂げていないこと、(例えばガレージを片付けるとか、何かのクラスを受講する手続きをするとか、自分の履歴書を更新するとか、とうシンプルな ことや生活の中のことでも)を探すことです。


劇的な転換
私たちは今まで「苦労しても成果が少ないシーズン」の中にいました。
「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。」ハガイ1:6
しかし、 神が私たちの人生に与えられたすばらしいデスティニーの建て直しにむかって私たちが進み始めるとき、 これらのことは劇的に転換、シフトします。2012年10月から神はよりすばらしいデスティニーと目的を解き放たれます。それは2013年に入ってから私 たちが 御国の影響力をもっと大きく持つための準備となるでしょう。


失業者に関する報告を信じるな
神は6月に霊的領域において何か新しいものを解き放たれます。私たちは新しい仕事、関係、思いがけない昇格を見るでしょう。もしあなたがそれを必要 としているならば、その領域に入っていく備えをしてください。敵は失業を用いて人々を押さえつけていました。それは単に経済的にだけではなく、人々を孤立 させ落胆させていたのです。あなたがするべき事をして備えるときにこのような枷が取り去られるのを見てください。又、将来の昇格につながる移動にも注意し ていてください。


神と時を合わせる時
私は先月「変化の風」という預言の言葉を伝えましたが、その風は5月15日に始まりそれ以来吹き続けています。神が私たちの人生の中にある瓦礫を吹 き飛ばしておられるので、霊的空気が変化しているのです。これは裁きの言葉ではなく、今起こっている新しいムーブメントには神からの恵みが沢山あるので す。今起こっている変化は、神の御計画にそった道に私たちを連れ戻し、神のタイミングに私たちを合わせるためです。


6月20日
6月は古い考え方や正しくない思いを打ち破るために一生懸命に頑張る必要がある時です。神はすべての限界を取り払っておられます。私たちが直面する 最大の限界は、自分自身の思いです。6月20日に注意していてください。よいチャンスの窓が開き、もっとはっきりと見えるようになります。7月までには、 私たちの中に確立されつつある神の新しい御計画を理解し洞察することができるようになります。

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ガラテヤ6:9

失望してはいけません。今は神が私たちに約束してくださったことのために戦うときです!
皆さんがこれを読まれるときに、 あなたが神から受けていた古い仕事に関して神が語られ、それを完成する力をあなたがいただくようにと祈っています。そしてあなたがデスティニーへの次の一 歩である新しいエクサイティングな御国の仕事を神から受け取る用意ができるようにと、私は祈っています。それが起こり始めるのを見るのはすばらしいことで す!(終り)

6月25日:http://www.banministries.org/?p=1877