2012年2月2日木曜日

終末における火のバプテスマ



ウエイド・テイラー

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」創世記3:8
アダムとイブが主の声を聞いたのは、「彼らが歩いていたとき」ではありませんでした。そうではなく、彼らは「歩いている声」を聞いたのです。この言葉は非常に深い意味を持ち、2つの事を明確に示しています。
まず一番目に、彼らが声を「聞いた」という事実は、主が私たちと話をしたいと願っておられることを表しています。
「耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:9
 二つ目に、主が「歩いておられる」という事実は、主はご自分が語りたいことを続けて語って行くことを表しています。すなわち、主は昨日言われたことを越えて、今日は今日のことを語りたいと願っておられるのです。
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が 来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示 すからです。」ヨハネ16:12−13
明日主は、今までに語られた事を越えたことを話されるのです。
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」黙示録4:1

主の預言的カレンダー
創造は6日間で完成されました。そして主は7日目に休まれました。ペテロはこの時を「一日は千年」としても理解できると言っています。この7日間のうち、初めの4日間が旧約の時代、次の2日間が新約の時代、そして最後の7日目は千年王国として分類することができます。
これは預言的な「時」のことであり、必ずしもカレンダーに基づく時ではありません。 この考えに基づくと次の箇所はこのように理解することができます。
イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは(教会時代)、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目(千年王国)に全うされます。』」ルカ13:32
人類の歴史の中で、 各「千年という一日」が終りに近づくころ、主が直接的に介入されましたが、その都度、主は一人の`人物にご自分を顕し、その結果その人はその時代に大きな影響を与えました。
最初の「千年という一日」を通して、ずっと主は人類と共に歩かれました。その終りに洪水が起こり、ノアとその家族以外のすべてのものが地上から取り 除かれました。洪水に対してノアが備えられるように、主はノアを訪れました。2番目の「千年という一日」を通してずっと主は共に歩かれ、やがてアブラムが カルデヤのウルから呼び出されました。神の訪れにより、彼は神の友、信仰の父であるアブラハムとなりました。そして神と人との個人的関係が確立され、アブ ラハムは「ソドムとゴモラ」に対する神の裁きに関して、神と論じ合いました。
次の「千年という一日」を通して主はイスラエルの中を歩かれました。この時代が栄えたときに、主はソロモンにご自分を顕したので、彼は「雅歌」を著し、神殿を建てました。神殿には神の栄光が顕れ出ました。
4番目の「千年という一日」の間、イスラエルは少しずつ主から離れて行きました。この「一日」が終る頃、天使ガブリエルがマリヤに現れ、神が彼女の 身体を用いて御子をこの世に送りたいと願っておられることを告げました。マリヤはそれに服従し、イエスが生まれました。後にバプテスマのヨハネは「荒野で 呼ばわる声」として召し出され、イエスを「神の小羊」として世に示しました。
5番目の「千年という一日」の初めに、イエスの十字架、復活、昇天によって贖いの業が完成されました。屋上の間で待っていた120人の上に聖霊が注 がれ、教会が誕生しました。聖霊が下ったとき、炎のように分かれた舌が一人ひとりの上にとどまり、彼らは聖霊に満たされ、彼らの知らない言語で神の栄光を 語りました。

主は5番目の「千年という一日」、即ち教会時代の最初の「千年という一日」の中を使徒的力をもって歩き続けられました。そして当時の世界はそれに よって大きな影響を受けました。次第にニコライ派(信徒を統治する者たち)が支配力を強め、超自然的であるべきものを 宗教という形式と儀式とに置き換えてしまい、それによって「暗黒時代」がもたらされました。
この時代に、紀元1150年頃、クレアヴォクスのバーナードが、神の恵みに関する啓示を受けました。この光は広がって行き、やがてローマ・カトリックの神父であったマルチン•ルターの人生の中に明るく輝きました。
神の歴史の6番目の「千年という一日」、即ち教会時代の2番目の「千年という一日」、が始まったとき、主は歩き続けられ、贖いの光が 暗黒の教会に再び輝き始めました。
ヴァチカンの建設費用を集めるために、ローマ・カトリックは「煉獄」での苦しみを免れることが出来ると言って「免罪符」を販売しました。マルチン• ルターは「救いは恵みによる無償の贈り物であり、買収できるものではない」という理解を神から受け取りました。そして1517年に彼の論文を教会の扉に打 ち付けました。これによって教会への重荷を持っていた真の「教師たち」が回復されてきました。続いてこれに対する大きな迫害が起こりました。
1600年代に神の言葉「聖書」が印刷され広まり始めると、バプテストの人々が、「もし私たちが恵みによって値無しで義とされるならば、地域教会の 中で育つ人たちにこのことを伝えねばならない。」という啓示を受け取りました。キリストのからだの中に「牧師」が回復され、彼らへの迫害がまたもや起こり ました。
1700年代にも主は歩き続けられ、ウエスレー兄弟が、「義とされた者は、目に見える形での献身の証しがなければならない。」という啓示を受け取りました。それによって起きたリバイバルは1800年代まで続き、キリストのからだに「伝道者」が回復されました。
1901年の大晦日に、カンサス州トピカの小さな聖書学校で一人の若い女性が聖霊のバプテスマを受けました。他の人たちもこのバプテスマを受け始 め、この神の訪れはロスアンゼルスのアズサ・ストリート・ミッションへと広がっていきました。「義とされ、聖化され、福音を伝えていくならば、その目的の ために私たちは力を受けねばならない。」という啓示が示されていきました。

このようにして使徒行伝1:8が その時の「 今の言葉」となりました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
ペンテコステの神の訪れが世界に広まっていくにつれ、またもや迫害が起こりました。
しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。 ガラテヤ4:29
聖書や教会史の中に明らかなように、神の訪れを受けた者たちは各々、その時代にそれまでに知られ受け入れられていたものを越えた啓示を受け取ったのです。そして、その一つ前の啓示を受け取った者が、次のレベルの神の訪れと啓示を迫害する者となっていきました。
その理由は、彼らが自分たちのレベルの霊的経験に満足し、そこに安住してしまったからです。ですから今もルーテル派、バプテスト派、メソジスト派、ペンテコステ派が存在し、彼らはその場所から進んでいないのです。
しかし、主はどんどんと歩き続けられたので、それから40年後に「後の雨 Latter Rain」における主の訪れの時に、次の啓示が受け取られました。それは「もし私たちが福音を伝えるために力を受けるならば、超自然的な賜物が働き、しる しが現れるはずである。」というものです。この啓示により、「預言者」と「預言の賜物」が教会に回復されました。
迫害がまた起こりました。ペンテコステ派が「後の雨」の訪れを受け入れなかったからです。しかし、真理が少しずつ回復されるために、誤解されたり拒否されたりするという代価を喜んで払う人たちがいました。
それから更に40年が経ったとき、「カリズマ運動」における神の訪れが、主流教派の教会の中にも聖霊のバプテスマをもたらしました。ですからこれまでに、教師、牧師、伝道者、預言者が回復されたのです。
カリズマ運動の神の訪れの時、「使徒」が回復されるべきはずでした。バプテスマのヨハネは「聖霊と火のバプテスマ」について語りました。このバプテ スマは、屋上の間での聖霊のバプテスマのときには起こりませんでした。なぜならば、火のバプテスマははっきりと招かれなければ起こらないからです。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のは きものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場を すみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。マタイ3:11−12

終末の聖霊の火のバプテスマ
私たちは、今までに異言や力あるミニストリー、賜物を伴う聖霊のバプテスマを経験してきました。しかし、「聖霊の火」によるバプテスマにまで到達す る必要がまだ残っているのです。それは、 使徒になるべき人の罪を完全に取り去り清めて、使徒職の回復のために備えるものであり、又、キリストのからだの中の人々に使徒的な働きをする力を与えるも のです。そしてそれはキリストのからだが今までに達成したレベルを越えて教会を前進させるものです。
この終末の(真の)「使徒的なもの」の訪れによって「聖霊の火」が分与され、それは主のシェキナ(栄光)の回復への道備えとなります。これによって人生の真の聖さと霊的一致が起こり、「創造する力を持つ言葉 creative word」が権威をもって語られます。
使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇跡と不思議と力あるわざです。第二コリント12:12
超自然的なものの現れは、真の使徒的ミニストリーのしるしです。栄光の顕れの中での創造する力のある言葉が使徒によって回復されるとき、それは世界の国々に対して再び大きな影響力を及ぼし、千年王国が確立されるための備えとなります。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しか し、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。イザヤ60:1−3
罪を犯してアダムは「シェキナ」の覆いを失いました。そしてその「シェキナ」が、人がいのちの木に行けないように道を守る炎の剣として、アダムの敵 となってしまったのです。しかし、ペンテコステの日に屋上の間で120人が祈っているときにこの「シェキナの火」は友となり、一人ひとりの頭の上に戻って きてとどまったのです。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のように分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話 しだした。使徒行伝2:1−4

彼らすべては聖霊で満たされましたが、「火の舌」は彼らの頭の上にとどまったことに目を留めてください。「火」が彼らの内に入るためには、もっと何かが起こらなければならなかったのです。
これら一つひとつの神の訪れによる前進により、教会には霊的生活とミニストリーが徐々に回復されていきました。そして「カリズマ運動」による神の訪れにより使徒的なものも回復されるはずでした。
しかし残念なことにこの神の訪れは、ミニストリーのための賜物、特に癒しと個人預言という表面的なムーブメントにとどまりました。キリストのからだ の中で使徒的油注ぎと力をもって機能できる「使徒職」の回復の備えをするための「火」が、個々人の中に入り聖めることができるスペースが与えられなかった のです。
ですから、現在、カリズマの訪れは薄れつつあります。有名なリーダーたちが堕ちるとき、彼らの失敗は、彼らがその代表となっていたカリズマの訪れに は「火」が無かったことを指し示しています。もし「火」が来ていたならば、彼らは完全に聖められて、失敗を犯す余地はなかったはずなのです。
「使徒的なもの」が完全になるためには、私たちが主の臨在の中で物事を見ること、臨在の中にとどまることが必要です。内面的な聖め、罪の追放なしには、主は主の宮に入って初代教会と同じレベルの力で使徒職を回復することはできないのです。
私たちは主の「parousia」(主の顕れ)のときに今生きています。主の終末の目的のために参加する備えの出来ている者に、主の顕れがあるのです。イエスがそのような者たちに顕れるとき、主は力と確たるしるしを伴う真の使徒の油注ぎを彼らに分与されるでしょう。
ですから、今現在の主の言葉はこれです。「宴会に招かれていた者たち (各教派やカリズマティック・ミニストリー)が応答しなかったので、聖霊は今大通りやわき道に行きキリストのからだの中で賜物のない者たちに、宴会に来て 使徒の油注ぎと力を身にまとうようにと招いておられます。」(マタイ22:3−10参照)

現在、神の働きのスポットライトは、 牧師の説教台(説教者、指導者)を離れて会衆の座っている座席(一般信徒)の方に移り始めています。キリストのからだの中で「目に見えるような」目だった 能力や賜物のない者(信徒)たちが聖霊の呼び掛けに応答する時、彼らは主の顕れの臨在によって、使徒職の回復の中で機能する備えをすばやく調えられつつあ ります。
使徒的権威の新しい波が、再び、神の力によって諸国を揺り動かし、諸国はそれによって再び大きな影響を受けるでしょう。
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 黙示録2:26−27
その結果、神の御国が義と平安の内に確立され、大いなる喜びが世界中にわき起こるでしょう。イエスが王の王、主の主として顕されるからです。(終わり)

Wade E. Taylor
Wade Taylor Ministries





2012年1月30日
日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/

2012年1月19日木曜日

輝かしい新年のために

 グラハム・クック

新しい年を迎える時、私たちは自分がいまいる所はどこか、これからどこに向かうのか、これからどのような人生を望むのか、というようなことを考える伝統があります。何かが変ることを望んで、 決意のリストを作りますが、大概一月が過ぎる頃には駄目になってしまいます。

失敗する理由は、私たちが間違った動機で、間違った種類のリストを作るからだと思います。大抵私たちは自分自身や周りの状況の中で一番変ってほしい事のリストを作ります。リストの大半は否定的、ネガティブなことです。
「今年は人に利用され踏みつけられないようにしよう。この体重を減らそう。怒らないようにしよう。 気が短いところを変えたい。あまりくよくよ心配しないようにしなければいけない。私はどうしてこうも悲観的なのだろう、変らなければ。」という風にです。

私たちの動機は、改善したい、増やしたい、向上したい、というものです。もっと良いものを、もっと沢山ほしいのです。 そこで問題なのは 、私たちが自分のネガティブなところに焦点を当てると、ネガティブのサイクルに陥ってしまうことです。真実ではない自分の姿に取り付かれてしまい、自分が抜け出そうとしている穴の中にまた落ち込んでしまうのです。

ネガティブな思いにはまり込んでは、ネガティブな事を変えることはできません。私たちの人生は 、自分に欠けているものによって特徴付けられ識別されるものでは決してないのです。私たちが否定的なことに焦点を当てると、それ自体が弱々しく貧弱な自分のアイデンティティーを作ることになってしまいます。そして失敗を繰り返すこと、否定的になり、自分の可能性を認めようとしない方が、私たちにとってはよほどたやすい道なのです。

写真の世界でネガティブ(ネガ)とは、それからポジティブのプリントを作る事ができるイメージのことです。ですから、個人的な変革に関して言えば、私たちの中のネガティブのものは幾つかの段階を経ることによって、自分に対するイメージがポジティブに変えられるような過程を通らねばならないのです。

先ず、自分が変えたいと思うネガティブなもののリストを作ってください。次に、その一つ一つをポジティブに変換してください。
例:

「人に利用され踏みつけられないようにする」から「 自分の価値と大切さがもっと大きいことを知るようにしよう 」に。
「体重を減らそう」から「身体がひきしまり、より健康になって楽しもう」に。
「怒るのをやめよう」から「もっと優しく愛の人になるようにしよう」に。
「気が短いところを変えたい」から「自分の時間をもっと上手に使う人になる。もっと微笑み、そして親切になろう」に。
「あまりくよくよ心配しないようにしなければいけない」から「もっとすべてに信頼し、物事をあまり気にしない、ハッピーな人間になって楽しもう 」に。
「私はどうしてこんなに悲観的なのだろう」から「 自分に喜びと笑いを引き起こすような人生を生きよう」に。

お分かりですね。否定的なものを肯定的なものに変換して、真実の姿ではないあなたを見るのではなく、あなたがこうなりたいと思う人物になることを目標として生きる決意をするのです。

第三に、古い自分はすでに死んでいることを忘れないでください。否定的なリストを肯定的に変え、 焦点を自分の古い性質からキリストにある新しい性質へと移すのです。ローマ人への手紙6:2−14を読んでください。これは新しい歩みをするための型板です。私たちが成功し幸せで力を持つためには、キリストにある私たちの人生のすべて の土台は、この御言葉でなければなりません。キリストにあって私たちは古いものには死んでいるのです。古いものは過ぎ去ってすべてが新しいのです。(第二コリント5:17−21)神にあるあなたの新しい自分に生きてください。そして人々が 古いあなたに息を吹き返そうとするのを絶対に許してはなりません。イエスにある新しい自分を喜んで自分のものとし、楽しみながらそれを現実のものとして確立させてください。

第四に、「新しい人」になろうとしないでください。キリストにあってあなたはすでに新しい人なのですから! あなたは自分の言動を変えることによって新しい人になるのではありません。すでに存在しているキリストにある自分を受け入れて、そのように行動するのです。キリストの内に留まり、住まい、ずっとそこにいてください。あなたの心の中にある主のリアリティーから自分が離れることを許してはいけません。 あなたが主に焦点を当てるならば、すべての状況の中で表に現れてくるのは、主の平安、喜び、そして冷静な知恵でしょう。

最後に、この主にあっての新しい旅を楽しんでください! あなたは「状況のただ中」に生きるのではないことを忘れないでください。あなたは「キリストの内」に生きるのです。そこに留まってください! そこから物事を見つめてください。 そこから人生を生きてください。主の観点で物事を見て下さい。それが主の内に住まうということです! 今年は喜びがあなたと共にいつもあるようにしてください。主の喜びこそがあなたの強さ、勇気、堅固さ、健康、スタミナ、エネルギー、力、意図するところとなることでしょう。

すばらしい新年をお過ごしください !(終わり)

2012年1月18日
日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/

2012年1月6日金曜日

「今いる場所でわたしを愛しなさい」



フランシス・フランジペン

 主を探し求めているとき、最も困難な時期が 神の愛を経験するブレークスルー(打ち破り)に変えられる可能性があることを、私は見出しました。私にとってそのような時は、1979年から1981年の 間に起こりました。私が属していたある教会の群れが、霊的惑わしに堕ちてしまいました。中心的な教義がどんどんとニューエイジの影響を受けるばかりか、不 道徳が入り込み、主要なリーダーたちが 他の女性のために妻を捨て去りました。私はもはや黙ってはおられませんでした。それで、私は1979年に、それまで牧師として働いていたミシガン州デトロ イトの教会を離れ、アイオア州にある教団の地区本部に赴きました。彼らに悔い改めを嘆願するためでした。しかし、上部のリーダー達との話し合いの結果は、 私がその群れを去るようにと言い 渡されたことでした。

私が置かれた状況は、教会もなく、お金もなく、しかも4人の子供をかかえているという状態でした。最低限の住居を借りるお金もありませんでした。と にかくどこでもいい、と探し回った結果、アイオア州のワシントンという田舎に古い農家を見つけることが出来ました。それは築100年以上の家でしたが、実 際はそれよりもっと古く見えました。家主と掛け合った結果、片付けやペンキ塗リ等の家の修理をすることを条件に、一年間ただで借りることができました。

けれども、この家の状態は私の手に余るひどいものでした。暖房はほとんどきかないので、台所に薪ストーブを入れました。 何とその冬はアイオア州の歴史で一番寒さが厳しい冬になってしまったのです。家の中に霜が付き、すべての窓は下から50センチくらいは霜でした。風が吹く と-50度Cくらいになりましたが、それより寒いときも時々あったのです。


毎晩暖かく寝るために、台所のストーブから5メートルくらい離れている食堂の床に置いた大きなマットレスの上に、家族全員が身を寄せ合って 寝ました。ストーブの後ろのファンが温風を私たちの方向に送ってくれました。私の夜ごとの仕事は、当然のことながら、朝までみんなが暖かいようにストーブ に沢山火を燃やすことでした。

ストーブに火を焚き続けながら、私は祈りながら神を求めました。ストーブは私にとって祭壇のようになり、毎晩私はそこで 自分の成就されていない夢や霊的孤独の痛みを神に捧げていました。勿論、 神が私の置かれている状況を知っておられることは分かっていました。私たちは本当に何もありませんでした。しかし神は、小さな多くの事柄を通してご自分を 顕してくださいました。私はただ、主が私に何を望まれているのかが分からなかったのです。


季節が移り変り、次の子供が生まれ、更にベトナムの女の子を里子にしたので、子供は6人となりました。家族が増えても、ストーブの周りの狭い場所は私にとって聖なる領域でした。夏でも私はストーブの横の椅子に座って、祈り礼拝したのでした。

「この時期に私は主の喜びを見出した」と申し上げたいところですが、 自分の状況に次第に順応してはいましたが、本当は私の心には惨めな思いがいつもありました。非常に貧しかったこと(年6000ドルほどしか収入がありませ んでした)もその原因の一つでしたが、それよりも、私は自分が主の御こころから外れてしまったように感じていたのです。私の祈りは常に「主よ、あなたは私 に何をお望みなのでしょうか?」というものでした。


神を求めつつ3年が経過しましたが、私の内には空しさがまだありました。私に対する神の御こころは何なのでしょうか? 私は二つほど聖書研究会を始 めていましたし、いろんな教会で数回説教もしました。しかし私は「自分は牧師である」という意識が強かったので、フルタイムのミニストリーを再びするまで は、 人生に対する神からの召しを私は失っているのではないか、という恐れを持っていたのです。

ミニストリーに関するこのような空しさを内に抱えてはいたのですが、 実際には私は霊的に(特に以前は耕されていなかった領域において)成長していました。私はキリストの御言葉を知り従うことに餓え渇いていたので、福音書を 深く学びました。以前は、無意識のうちに、ミニストリーの成功は私の業や働きによって起こったと考えていました。しかしこの期間に、主は私を単なる一人の 「イエス・キリストの弟子」にしてくださいました。


そして、 それまで聖書的だと思っていた多くの事柄が、ただの宗教的伝統に過ぎないことを私は発見しました。主は私が自分の心の中にある色々な考えを丁寧にもう一度 吟味し直し、その中で本当に私が喜んで死ぬことが出来る真理(複数)を探すように望まれました。そして「そのために死ぬことが出来る真理のためにこそ、あ なたは生きるべきです」と主は言われました。


携挙のタイミング、ワーシップのスタイル、霊的賜物などは、私も大切なこととは思いますが、率直に言いますと、それらは最も重要なもののリストから は外れていきました。私の焦点のトップに上がってきたのは、真にイエス・キリストの後を追う弟子になること(主の教えに従い、単に批評家としてではなく人 を励ます者)になりたいといる熱い思いでした。又、 自分が徐々に他の教派や異なる視点を持つクリスチャンとの交わりを喜び、彼らからも学ぶことができるように心が自由に解放されてきたことが分かりました。

この変化は深く永続的なものでしたが、 ほとんど気がつかないほどにゆっくりと起こっていきました。それは私の心の中で静かに起こっていたことであり、その時主がしておられたことが分かったのは 後になってからでした。この期間中、私はずっと「自分は神の御こころから離れてしまっている」という思いに捕われていたのです。 私への主の御計画を知りたいという祈りは、毎日続いていました。


ブレークスルー

ある日、私は台所のパントリー(食料庫)の中にいたのですが、いつものように「主よ、あなたは私に何をお望みなのですか?」と祈りました。その瞬 間、一瞬の輝きの中で主が答えられました。主は直接私の心の中に 「あなたの今いる所でわたしを愛しなさい。」と語られたのです。

その時私は牧師でも聖職者でもなかったのです。私は家族を養うためにテレビの修理をし、その他雑多なアルバイトをしていたのです。私は自分の仕事が 嫌いでした。以前牧会していた時には、テレビは良くないと教えていたのに、今は死んだテレビに「手を置いて」生き返らせているのです! 主からの答えは私 の心に真っすぐに入ってきました。私はそのシンプルさに畏敬の念を感じました!私は「あなたを私が今いる所で愛するのですか、主よ?あなたが私に望んでお られるのは、ただそれだけですか?」と訊ねました。これに対して主は「それがわたしのあなたに望むことのすべてです。」と答えてくださいました。


この永遠の瞬間、平安が私の魂に洪水のように押し寄せ、私は「自分のミニストリーをしなければならない」と言う間違った期待に駆り立てられていた自 分から解放されたのでした。神は「私が 神のために何をしたか」を見ておられたのではなく、「 私がどれほど神を愛する人間になったか」を見ておられたのです。主が問題とされたのは、私が牧師であるかどうかではなく、私が主を愛するかどうかだったの です。 何をしていても (テレビの修理人であっても)主を愛すること、、、それならば出来ます!


私の内に深い驚くべき変革が起こりました。私のアイデンティティーは、もはや「牧師であること」ではなく、「神を真に愛する者になること」にありま した。このように私が一番自分に重要なことは何かを決めた途端、驚いたことに、その2日後に私はアイオワ州マリオンの教会の牧師になるようにとの依頼を受 けました。 ミニストリーに戻りたいという焦りをずっと持っていたにも拘わらず、私はそのチャンスに 飛びつきませんでした。なぜならば、私は主が私に真に何を望んでおられるのかを見出したからです。少ししてから私はこの依頼を承諾したのでしが、その時に はもはや私の焦点は「教会を導くこと」ではなく、「神を愛すること」に変っていました。


神が求められること

神は、私たちのミニストリーの働きよりも、 私たちの愛を求めておられます。主の偉大な戒めは、私たちが主を愛することであり、究極的に言えば、思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし て主を愛することです。もし私たちが神を愛するならば、神が私たちに要求することはすべて満たすのです。(ヨハネ14:15)そして私たちが神を愛すると き、神はすべてのことを相働かせて私たちの益としてくださいます。(ローマ8:28)


愛する皆さん、神を愛することは難しくありません。私たちはどんな任務(メカニック、主婦、医者、大学生等々)に就いていても、私たちの天の父を大 いに喜ばせることができるのです。主を愛するためにミニストリーの肩書きは必要ではありません。神は、実際に私たちの人生の価値を私たちの愛の深さによっ て計られるのです。真に神を求めるものたちに神が求められるものとは 、即ち、私たちの置かれた場所で神を愛する事です。


祈り:主イエスよ、あなたの愛を知り私はあなたに夢中になりました。あなたは私を引き寄せられるので、私はあなたのもとに急いで参ります。主よ、た とえ世俗的な生活をしている時でも、私はあなたへの愛を表して行きます。どうかあなたの愛の中で私を燃やし尽くして下さい。(終わり)



日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/

2011年12月24日土曜日

2012年への聖霊の言葉「あかしの燭台」


ジョン&ジョリーン・ハミル

毎年9月11日頃、私と妻のジョリーンは新しい年に私たちのミニストリーが目標とすべき言葉を受けるために、主の御こころを求めます。2012年のために聖霊は 「 あかしの燭台」という言葉を私たちに語られました。

「 あかしの燭台 」とは、 地における神の契約の輝きです。神の愛は「火の炎、主のすさまじい炎(雅歌8:6参照)」です。聖書全体を通じて、燭台は度々ワーシップととりなしの象徴として用いられています。

つまり、神の燭台とは神の生きた炎を燃やすために召された器のことです。2012年が近づいている今、私たちは自分の燭台が主によってどのように評 価されているかを知ることが大切です。私たちは主イエスを照らし出しているでしょうか、それとも自分自身をでしょうか?  神は私たちすべてを、イエスへの初めの愛に戻るようにと招いておられるのです。(黙示録2章参照)


ハヌカの祭り:あなたの宮を再び聖別し献納する

喜ぶべきことに、今多くの人々が心から神の御こころと契約とにアライン(一致し沿い従う)しはじめています。それこそ2011年から2012年に移るにあたって、私たちがまず第一にするべきことです。

今月後半に始まるユダヤの光の祭り(ハヌカ)は 、神がいかに私たちとの出会いを求めておられるかをいきいきと表しています。ハヌカは、敵によって意図的に汚された神殿を聖別して主に再び献納したことを 祝う祭りです。神殿が敵によって汚されたとき、神殿の火も消されてしまいました。

神殿を再び献げるために、神の祭司たちは聖なる火を再び灯しましたが、油は一日分しかありませんでした。しかし奇跡がおこり、 新しい油が出来るまでの8日間、燭台は燃え続けたのです! ユダヤ人のメノーラと呼ばれる燭台が、光の祭りの一番大切なシンボルとなったのはその理由によ ります。

多くの学者が、マリヤは世の光である主イエスをハヌカの時に妊ったと考えています。あなたがこのシーズンにキリストとの契約を新たに結ぶとき、聖霊があなたを覆い、あなたを力づけ回復させる主の御ことばと御業が、あなたのうちにどのように妊るかを見守っていてください。


ハヌカの奇跡―神によって点火されたろうそく

8年前に私とジョリーンが結婚した時、私たち自身がハヌカの奇跡を経験することができました。 結婚式はたまたまハヌカの祭り(8日間)の最初の日にあたっていました。そこで私たちは式の中に燭台、メノーラを取り入れることにしました。式が始まり、 私たちはメノーラのろうそくに火を灯しましたが、真ん中の一番大きなろうそくは「私たちが一つになるユニティーのろうそく」として後で点火するためにその ままにしておきました。

私たちが主にワーシップを捧げ、主の栄光を下してくださいとまさに祈っていたとき 、私のベストマンであったウィル・フォードが 涙を流して私の方に身を寄せ、メノーラの方を指差しました。不思議なことにユニティーのろうそくはひとりでに灯っていたのです!

すべての人が見ている前で、神は私たちの燭台の中央のろうそくを、ハヌカの祭りの最初の日に、私たちの結婚式の中で灯されたのです。私たちのミニス トリーはLamplighter (火を灯す者)ministriesという名前なので、この出来事の深い意味を今でも繰り返し私たちは思い巡らしています。


燭台を整え、 再び火を灯す

しかし最初から私たちに分かっていたことは、ハヌカの奇跡は私たちのためだけではないということです。長年祈り続けてきましたが、今この言葉を公に ( 即ち、このことばと体験はすべての人が受け取ることができるということです)解き放つ時が来たと私たちは感じています。個人にも、また地域にも、神は「わ たしはあなたの燭台を整え、 再び火を灯す!」と言われています。

もしかしてあなたは、敵があなたの主への情熱を真っ向から攻撃してきたように感じておられるかもしれません。あなたがコントロールできない状況や失敗、裏切り、又は明白な悪意によって、あなたの神殿は汚され、あなたの火は消されたようにあなたは感じているのです。

神は 新しい栄光のシーズンへとあなたを招いておられます。私たち夫婦のためにしてくださったことを、主はあなたのためにも必ずしてくださいます! 2012年 が始まる前に時間をとり、 主への献身を新たに誓い、このプロセスへと進んでください。 聖餐式のパンとぶどう酒を用意してください。敵によって汚された部分を主に清くしてもらって ください。あなたの燭台を整えて炎を燃やしてくださいと、主イエス・キリストに願ってください。


2011:契約を更新する年

聖書では「12」という数は、統治(政府)を表します。「御国の契約」がどのように「御国の統治」を解き放つかを理解することはとても重要です。

アメリカの国家的レベルでは、2011年は前例がないほどにイエス・キリストとの契約を再び整えた年でした。Reformation Prayer Network(RPN)とHeartland Apostolic Prayer Network(HAPN)のリーダーたちが、シンディー・ジェコブ師とジョン・ベネフィール師のリーダーシップのもと、今まで教会が犯してきた偶像礼拝 の罪に対する悔い改めを、国内にある殆どすべての偶像の宮で宣言したのです。ホセア2章にあるパターンに従い、バールからの決別を乞い求め、それを獲得し ました。そして この国と神との間の契約を更新してくださるようにと主に願いました。

そして私たちのこの働きは、7月4日(アメリカ独立記念日)にワシントンD.C.のリンカーン記念館の前の階段で「契約の宣言」を主に捧げたときに 頂点に達しました。人々はアメリカ南部地方にある南北戦争の数々の戦場で祈りを捧げ、又アメリカ北部にある霊的覚醒が起こった霊の泉で祈ってから、最後に 3つのチームがこの場所に集合したのでした。

私たちのとりなしの祈りの旅は、リック・リディング師の「Nutcracker Prophecy くるみ割りの預言」に基づくものでした。1998年に北部と南部から人々がワシントンD.C.に集り、互いに契約を結び祈った時リック は「悪魔の抵抗という堅い殻」を主が割っておられるヴィジョンを見ました。そして彼は主がこの「くるみ割りの預言」を 2011年に再び強調されているように感じたのでした。そして その御ことばを解き放つために祈りの旅を企画遂行するようにと聖霊が私たちに語られたのです。


しるし:記念碑にひびが入った!

私たちはこのヴィジョンに従い、 神が私たちの国と再び婚姻関係を結んでくださるように、また、北部と南部を聖霊によって覚醒し一致させてくださるようにとお願いしました。それに対する神 の応答はエクサイティングなものでした。それは一月半後にワシントンD.C.で地震があり、まさに 偶像礼拝の中心となる記念碑(私たちが悔い改めた偶像礼拝の最大のシンボルであったもの)にひびが入ったのです!

これは神が本当に私たちの叫びを聞いて下さったしるしであると、私たちは感じました。主は堅い殻を割ってくださったのみならず、それよりもっと重要であるイエス・キリストと この国との契約の更新への私たちの嘆願に対して「YES」と答えてくださったのです。


2012年:あかしの燭台

前述のように、「あかしの燭台」とは、この地での主の契約を証しするものです。神の民が主のもとに立ち帰った時はいつも、契約が回復されたことの主 からの証しとして天から火が下りました。ハヌカのように、これこそ神が2012年に計画されている「あかしの燭台」だと思います。

ダビデやエリヤの時代において、主との契約を国が再び結ぶことにより祝福が与えられると、神は 祭壇に新たに火を下されました。又、主がアブラハムと契約を結ばれたときには、煙の立つかまどと燃えるたいまつが主の約束の証しとなりました。

主イエスは「世の光」であり、「あかしの燭台」の極みです。 2011年のハヌカには、主がご自分のからだと血潮によって獲得された聖なる契約を世界へ証しするものとして、神の炎が更に輝きを増してこの世に放たれる でしょう。世界の国々は主が昇られる輝きに引き寄せられるのです! 多くの者たちが今年、目を覚ますでしょう。彼らは立ち上がり、自分の灯火を整え、花嫁 なる主をお迎えするために出て行くのです!


目を覚まして輝く

今シーズン、聖霊がゼカリヤ4章に特別な光を当てておられるように私たちは感じています。この箇所はハヌカの奇跡(あかしの燭台に絶えることなく油 が注がれる超自然的な出来事)の預言そのものです。この箇所を祈りをもって注意深く読まれるようにお勧めします。あなたの人生に奇跡が起こることを請求し てください! この箇所は次のように始まっています。

「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります....』」

すごいですね! まず超自然的な霊的覚醒の動きが解き放たれています。ゼカリヤは目を覚まし、御座の部屋の燭台のヴィジョンを見るのです。

前述のように、 燭台はしばしばワーシップととりなしの祈りを表します。霊的覚醒の動きが進んでいる今、私たちがこのヴィジョンを捉えることを神は望んでおられるのです。 目を覚ましてあなたの燭台から輝きでている「世の光」なるお方をじっと見つめてください。主を仰いで礼拝してください!


休眠状態であった約束をとりもどす

この天使はすでに先のシーズンでゼカリヤに語ったことに目をとめてください。これはとても重要なことです。天使がゼカリヤを起したとき、眠る前に彼 に託され休眠状態になっていた約束の種をも天使は目覚めさせ活性化させたのだと思います。なぜならばこのヴィジョンは、神がすべての約束を完成させたいと 願っておられるという預言だからです。

ゼカリヤのヴィジョンはゼルバべルに対する預言でした。ゼルバべルは、ミニストリー及び社会における使徒的な統治を象徴しています。彼はバビロン捕 囚後の神殿修復を担いました。 神が「新しい活躍、新しい資源、新しい正確さを今年は与えら」と主のゼルバベルたちに言われているのが私に聞こえます。

恵みあれ!修復の仕事を完成させよ!

使徒的見地からいうと、燭台の出現は、神が 修復の仕事を完成させるために新しい恵みを解き放っているというしるしです。新しい年、私たちが今までより大きな統治の権威を発揮するにあたり、祈りのムーブメントがその業を下から支え推し進めていく力となるでしょう。

最も理解すべき重要なこと:今シーズン、御座の部屋の恵みがあなたに与えられていて、神があなたに託したヴィジョンをその恵みによってあなたは完成 させることができます。あなたの人生で神が揺り起こし活性化している約束が何であるかを示してくださるように、主に願ってください。主があなたをおおって くださるように、主がその約束の上をおおい完成させてくださるように願ってください。そしてその約束が目の前を通るなら、その後について人生の冒険の旅に 出かける備えをしてください。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主が言われます!(終わり)

Jon and Jolene Hamill
Lamplighter Ministries

日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/

2011年12月13日火曜日

啓示による収穫のための七つの鍵


チャック・ピアース

今私たちは極めて重大なシフトの時に立たされていることを、「キリストのからだ」が理解することは、非常に大切だと私は思います。もし私たちが霊的 にシフトし、神の御霊が今日私たちのために備えてくださっている啓示による鍵を掴むならば、私たちは勝利をもってこのシーズンの中を前進して行けるでしょ う。

以下が前進するための7つの鍵です。


1.新しい管理体制のもとでの一致した動き! 夢を見よ!

キリストのからだとして私たちは、新しいヴィジョンのシーズンに入りました。新しいヴィジョンは新しい管理体制を必要とします。私たちは将来的にど のように聖霊の働きを「助け、共に働く」のでしょうしょうか。私たちのGlory of Zion International 及びGlobal Spheres Centerは、今多くの変革を経験しています。 私たちが新しいオフィスに移る前に、私たちが変わることを主が願っておられることがあるのを、私は感じました。


私は昨夜一つの夢を見ました。夢の中で、私たちの学校の管理者として働いているローズ・フリーガーさんと私は、シンクロナイズド・スイミングを習っ ていました。それは新しくて複雑な動きでした。私たちのチームには5人いて、インストラクターは次のシーズンの模範演技で私たちがどのように動けばいいの かを教えていました。ローズさんは新しい動きは習いたくないと決めました。彼女がそう決めたとたん、プールは下水汚物で一杯になってしまいました。主は何 を言われているのでしょうか?それは「主が教えようとしていることを拒んではならない、さもないとあなたが今まで泳いでいた生ける水は下水になる」という ことです。


2.奇跡が起こる環境を創る!

主は、奇跡が起こる環境を創るようにと私たちに願われていると信じます。それはどう言うことでしょうか? 大抵の人は、困難な状況に置かれると、困 惑し神に奇跡を願いますが、願ったような結果を見ることはできません。私たちはGlory of Zionで今奇跡が起こり始めるのを見ています。今までも私は奇跡が起こるのを見てきましたが、今は新しい(一段)高いレベルに入りつつあることを信じま す。私たちは奇跡のための環境を創っているのです。キリストのからだは、癒しを求めていくだけではなく、奇跡が解き放たれるように強く求めねばなりませ ん!キリストのからだの中で 、新しい方法で奇跡の賜物が活性化されるシーズンに私たちは入ったのです。主に「奇跡とは何ですか?」と訊ねてください。信仰が活性化されるのを私たちは 見なければなりません! イッサカルの油注ぎと奇跡は相共に働くのです! ワーシップとプレイズは私たちを奇跡へと導くのです!マシャカ(Mashach  奇跡の油注ぎ)は今ここにあるのです! 栄光がその場所にあればあるほど奇跡を孕むのです。ナザレで奇跡が活性化されず起こらなかったのは、これが問題 だったのです! ナザレ症候群を打ち破って奇跡へと進もうではありませんか!


3.宗教の霊を克服する

今は宗教の霊に打ち勝つシーズンです。宗教の霊とは何であり、どのように働くのでしょうか? それは歴史を通して教会の発展を懸命に止めようとして 来た惑わしの勢力です。宗教は、もし私たちがその文字通りの意味(神に関する”divine”なことだけを考慮する)に留まるならば悪いものではありませ ん。「宗教 religion」という言葉は、聖書の中では3つの意味で使われています。即ち「目に見える宗教的奉仕」「全面的に神に依存する心」「道徳、律法を遵守 する神の組織、機関」の3つです。


ヤコブ1:26―27では、宗教をクリスチャンの視点から定義しています:「自分は宗教に熱心(religious)と思っても、自分の舌にくつわ をかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っている ときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」

宗教は礼拝と関連しています。宗教は、それがきよいときには強い力を持ちます。しかし宗教は又、「 認可された一定の行動形式pattern of behavior.をもって組織化された教義のシステム」とも定義されます。そしてその行動はその教義にふさわしい礼拝形式で行なうことを強いられます。 この点において私たちは、きよく汚れのない宗教から、単なる儀式へと移行してしまうのです。「教義の悪霊」Demons of doctrinesは、きよくあるべきものを暗闇の霊的な力に変え、聖なる神を礼拝する人々の自由を奪い、人々にただ規則と規律を与えるだけになってしま います。


私はこれまで常に創造的にものごとを考え、礼拝を心からからだで表わす礼拝者になろうとして来ました。キリストのからだの中で私は、 神の心と思いを表す現代の預言者として知られて来ました。私は、神の賜物に抵抗する宗教の様々な霊をつねに追い出すようにして来ました。悪霊たちは、私た ちが神から啓示をうけることを憎みます。悪霊たちは、キリストのからだの中で人々に自由に啓示をもたらす賜物(を持つ人)に対して抵抗するのです。宗教 は、使徒や預言者の啓示を石打ちで殺そうとします。なぜならば、啓示の言葉こそがこの時代の教会の中に神の土台を打ち立てるものだからです。第一コリント 12:28は、教会がこの世で勝利するための統率の賜物の順序を明らかにしています。即ち「第一に使徒、次に預言者」です。宗教の霊はこの神の秩序を拒も うとしているのです。


又、宗教の霊は変化を嫌い否もうとします! その結果、人々は型にはめられて同じことを繰り返すだけになり、 今日彼らを勝利に導くことが出来る方法へと移行する気持ちを持たせないようにします。肉的な思いは神に逆らいます。ですから宗教の霊は将来への戦略を阻も うとします。 私たちは、神の御霊が地上に変革をもたらすのを、自分たちの思いと思考過程で助けることができるのです。


主イエスの弟子たちは、「主とはどんな方であるのか」「自分たちは何をすべきなのか」「自分の敵は誰であるのか」に関する啓示を受け取らねばなりま せんでした。これは今日でも同じなのです。パリサイ人たちには、神の御子の聖なるご性質を否定するか、それとも神の御子の言うことに聞き従うか、二つの選 択肢が与えられていました。彼らは自分たちの礼拝の仕方を変えることを阻む規則をそのまま遵守するか、それとも霊とまことをもって礼拝し始めるかのどちら かを選択せねばなりませんでした。彼らの多くは、自分の人生や、家族、 社会を変革できたであろう正しい選択をすることができませんでした。ですからマタイ16章でイエスは、当時の律法学者やパリサイ人から鍵をとりあげ、それ を既成の宗教に挑戦して教会を正しい未来へと導こうとしていた将来のリーダーたちに与えたのでした。


4.歩兵の先を行く

アン・テイトさんが今朝私のところに来て次のことを話してくれました。:

「私が仕事に行くために服を着ていたとき、 駆けている馬のネックレスを着けるようにと主が言われたように感じました。エレミヤ12:5がすぐに頭に浮かびました。『あなたは徒歩の人たちと競争して 走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの迷路のような危険な密林で過ごせ よう。』」


敵が歩兵であった時と所から私たちはすでに過ぎていることを、主は私たちに告げておられるのです。 今の新しいシーズンの敵は今までの敵とは異なり、新しい戦法が私たちには要求されているのです。前のシーズンで私たちが戦った敵は、似通った組織と戦い方 をしていました。 しかし今シーズンの敵は、飛んでいるような幻影を人に与えながら、実際には非常に堅固な力を持っているのです。疾走している馬はあたかも飛んでいるかのよ うに見えます。彼らは人間よりも高い場所を占めているのです。


今シーズン私たちは、肉体的、物理的に克服できるような敵と戦ってはいないのです。 私たち人間は、物理的に馬と一緒に走ったり競争するのは不可能です。それと同じように、私たちが混乱の渦中に巻き込まれ、脅かされ打ち負かされそうな時 に、 自分の道を正しく選び取ることは不可能です。今始まったシーズンにおいて私たちが勝利するためには、私たちの新しい領地を荒らす野獣どもを新しい上からの 視点perspectiveから見ることによって、彼らに対する権威を獲得することを私たちは学ぶ必要があるのです。そうすれば彼らを捕らえて、神の目的 のために降伏させることが出来るのです。


5.新しい大波が来る!あなたはその波にのれるか?

神の御霊の新しい波が来ます。この波は私たちが今まで見たものより大きなものです。キャロル・ボレンさんが次のことを話してくれました。:

「私とビル(夫)とがボートに乗っている夢を見ました。突然城壁のように大きな波が起こりました。ボートは波をまっすぐに上り始めました。ビルは ボートから落ちないように何かにしがみ付きながら、この波の一番上まで上ったら、次に真っ逆さまに落下するに違いないと恐れていました。彼が私の方を見る と、私は座席に落ち着いて座り、回りで起こっているスリル満点の出来事を楽しんでいました。すると又突然に、私たちは静かな海の上に浮かんでいました。ビ ルが私を見たとき、私は 『あんなに怖がらなくてもよかったのに。 これは主がされていることだと私には分かっていたのよ。』と彼に言いました。」

神が言われていることはこうです。神の御霊の大波が来ると多くの人は恐れるでしょう。しかし主は「ボートの中にとどまり、次に来るわたしの御霊の波にのりなさい!」と言われているのです。


6.勝利への最後の一押し!

ブレークスルーが起こり、それから究極的な勝利があります! ダビデはペリシテ人を打ち負かしましたが、彼らは態勢を整えて再び彼に向かって攻めて き来たことを思い出してください。主は「これが新しい次の戦略だ。後ろから攻めよ! しかしバルサム樹の林の上から行進の音が聞こえるまで待て!」と言わ れました。ダビデはペリシテ人との長年の戦いの後に、 第二サムエル8章にあるように、メテル・ハアマを遂に奪い取ったのです。全面的に勝利するまで止まってはいけません!

私たちの多くは今まで敵地に攻め込み、占領し、約束のものを完全に受け取るために戦ってきました。神と神の民である私たちの義に反抗する不義の勢力 に対して戦ってきました。今、私たちの敵を完全に征服し、彼らがもはや私たちに対して手を挙げないようにする時が来ました。これは民を極度に苦しませたミ デアン人を滅ぼすときにギデオンがしたことです。


7.勝利する新たな力! 自分をなくさないでしっかりと立ちなさい!

新しい力が解き放たれています。キリストのからだは簡単には騙されなくなり、 敵を察知する新しい方法を学んでいます。私たちを型にはめようとするこの世の組織よりも更に大きな力を私たちは持っているのです。ハイディ・デハートさん が次の夢を話してくれました。:「夢の中で私はある会社で働いていました。 そして特定な会社の一つのプロジェクトの仕事をしていました。すると、その会社に関するプライベイトな情報が欲しいという手紙を受け取りました。その手紙 をよく見ると偽物だとわかったので、その情報を送りませんでした。


その夜私は両親の家で寝ていました。それは両親の家のようには見えませんでしたが、そうだったのです。私は部屋に押し入ってきた二人の男性によって 起こされました。一人はスナイパーのようなライフル銃を持っていました。もう一人は何も持っていませんでした。私の部屋の中で二人を見たとたんに、私は大 声で両親に 『部屋に男がいる!』と叫びました。両親はやって来ましたが、ただそこに立っているだけでした。私は一人ではなくなったので、少し安全だと感じました。

武器を持たない方の男が私に話し始めました。彼は脅かすわけではなく、ただ、 私が今の仕事をするには私は 『保守的過ぎる』ことを納得させようとしました。彼は『保守的(古風)』という言葉を『クリスチャン』という意味で使っていました。会社のプライベイトな ことを私が明かさないので、彼は妥協しない私を別の部署に移したかったのです。


私は彼に『でもここはアメリカですよ!信仰の自由は守られています!』と言いました。彼はくすくす笑って『あなたはそう思っているかもしれません が、本当は違うんですよ。』と言いました。時々ライフルを持った男が緑色のレーザー光線で私を撃ちました。痛くはありませんでしたが、全身が麻痺してき て、私はうとうと眠ったり目を覚ましたりしていました。それは私を彼らに従わせるためのものだったと思います。


男が話している間、家の外でいろいろなことが起こっているのが分かりました。家々の芝生がめくられて、巨大なコンテナーが芝生に掘られた穴に入れら れ、その上に又芝生が戻されて、朝には何もなかったように見えるのです。それは政府のものすごく大きな陰謀で、人々が眠っている間にすべてが行われ、朝に は普通通りに見えるのです。


武器を持たない男は尚も私を説得しようとしましたが、私は承知しませんでした。私は、神の御国を内に持っている人々を説得するのは困難であろうことを彼に説明し始めました。

私は彼に言いました。『人の気持ちを変えるのは難しいと思います。その理由はこれです:神は天におられます。人間とサタンは地上にいます。神はイエスを地上に送られました。イエスは「インマヌエル、神我らと共にいます」と呼ばれました。』

突然、私の左手が磁石のように動き、てのひらが彼の左手に吸い付けられました。トライアングルが何度も打ち鳴らされるような音が聞こえ、私の中から 力が出て、私の腕と手を通り彼の中に入っていきました。私はただ『ジーザス、ジーザス、ジーザス!』と叫んでいました。その時私は目を覚ましたのです。」


あなたの未来を開くために、これらの7つの鍵を使ってください!(終わり)

2011年11月9日付けのニュースレターより、日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/ から

2011年11月27日日曜日

ダビデがエルサレムを勝ち取った時


フランシス・フランジペン

教会が犯す大きな間違いの一つは、自分たちが持つべき信仰と目標の基準を、自分たちの(先人の)過去のやったことを基準に置いてしまうこと です。イエスの再臨までに未だ多くの約束が成就されねばなりません。聖書は終わりの日には困難な時代がやってくると言い(2テモテ3:1)、又リニューワ ルと回復の時も来ると書かれています。(使徒2:19-21)
これから起こる世界的な闘争の中で、地上における神の御国は天の御国に一致したもの となるまで、更新・回復されていかねばなりません。多くの実りと神の栄光と力が発揮されていかねばなりません。そのために、私たちが獲得することが出来な かった色々な約束は私たちの子どもたちに与えられると信じることも大切です。

そのことに就いて、ダビデ王の生涯から私たちは励ましと導きを得ることが出来ます。彼の時代は今の私たちの時代に似ています。へブル人は約 束の地にいましたが、そこには未だ打ち勝っていない敵が共存していました。ダビデが王に就任すると、彼は自分たちがそれまでに勝ち得た以上の主からの約束 が未だになされないまま残っていることを知っておりました。特に、エブス族が今のエルサレムの地を占領していること、これを打ち負かすことが残っていまし た。ダビデがもし、彼の先人たちの成功(不成功)の成果を自分の標準に当てはめるとしたなら、ダビデはエブス人を襲うことを企てなかったでしょう。エブス 族は山地に強い獰猛な民族であるという定評があったからです。今までこの民族は倒さねばならない相手のリストに載ってはいたのですが、誰も倒してはいませ んでした。

考えてみてください。ヨシュアから士師記の時代を通してイスラエルには偉大なヒーローは多く出ましたが、誰もエブス人を征服していないので す。ですから、ダビデが彼らの要害であるエルサレムを乗っ取りに来ると聞いて、彼らは軽蔑を込めて「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえで さえ、あなたを追い出せる。」(2サムエル5:6)とあざ笑いました。

ここで二つのことが学べます。一つは、神が約束されたことは実現されねばならない(必ず実現する)と思う人は誰でも、過去の例から見てそれ は無理であると恐れてはならないと、主が言われていることです。すなわち、あなたが今まであなたの教会とか都市とか国において神の力があらわされていない からと言って、神が一夜にして事態を変えることが出来ないと思ってはならないと言うことです。
二つ目は、私たちが打ち負かされるとすれば、それは 多分悪魔自身によってではなく、不信仰なクリスチャンの神の導きではないアドバイスに起因する可能性が大きく、これに気をつけなければならないと言うこと です。エブス人の嘲弄を思い出してください。「盲人や足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言ったのです。
私たちは霊の悪き者に対してはしっかり立てる信仰を持っているかもしれませんが、教会で私たちのすぐ隣に座っている霊的に目の見えない人や足なえによって打ち負かされることにこそ気をつけねばならないのです。
「霊 的な盲人」とは誰でしょう。端的に言えば、あなたの持つビジョンが見えない人たちのことです。神があなたの心に入れてくださった「将来に目が向いている 信仰」に盲人になっている人のことです。そのような人があなたの霊的カンセラーになることを許してはいけません。気をつけてください。多くのクリスチャ ンがそのような「霊的盲人」の人たちに(意外に)同情的・同調的なのです。僅かであっても彼らの不信仰のパン種が、必要で重要な戦いの時にあなたの信仰 を弱らせるのです。

霊的盲人と共に感情的足なえが挙げられていますが、この人たちは過去に何か(あるいは誰か)によってつまずいた人たちです。彼らはもは やキリストと歩調を合わせて歩いていない人たちです。皮肉屋と言われる人たちとあなたの夢を分かち合うことに気を付けてください。そのような“感情的足 なえ”の人の警告を聞いていると、彼らの言い訳が私たちの(霊的な)力をそぐことになるのは時間の問題です。私たち自身も必要以上に慎重になり過ぎ疑い深 くなります。私たちは他のクリスチャンからのカンセリングが必要ですが、又、私たちは常に人を赦すこと、そして私たちに反対する人たちにもやさしい態度で なければなりませんが、霊的に目が見えない人と感情的足なえの人が私たちのガイド役となることを許してはなりません。

私たちの世界での真の敵は、人ではなく、社会に悪い影響を与える霊的な力(フォース)です。覚えておいてください。もし私たちが「足な え」とか「目が見えない」のであればイエスが癒してくださいます。しかし、事実先程のエブス人のように、サタンは私たちの以前にいたクリスチャンの多くの 失敗を見張っています。町全体とか国家的リバイバルのために牧師やとりなし手が祈るときに私たちは悪魔の冷笑とさげすみに気がつくことがあります。この悪 魔の侮蔑に実質的な力がないのではありません。

一般的に言って、私たちの霊的祖先たちはその町の悪の要塞を取り崩すことに成功していなかったのです。と言うことは過去の歴史はまさに悪魔側に有利なのです。しかし神は私たちに、他から影響を受けて変わったりしない不変な御ことばを下さっています。それが神の約束です。


「こ の幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れるこ とはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバカク2:3-4)

「信仰で生きる」とは、神から与えられたビジョンが実現するまで神を信じ続けることです。歴史がエブス人側に味方しているにもかかわらず、私たちは読みます。「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町(エルサレム)である。」(2サムエル5:7)

エブス人に勝利するというゴールを持ち続けることに、実はダビデは彼の若い頃から心引かれるものがあったようです。聖書によれば、ゴリアテ を殺した後、彼はそのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰ったと書かれています。(1サムエル17:54)当時エルサレムはエブスと呼ばれ、エブ ス人が住んでいました。ダビデはあたかも彼らに「よろしい。私は今はただの若者だ。しかし私はこのペリシテの巨人を征服した。よく覚えておけ。私は必ずあ なたたちのところに帰ってくる。」と言っているようです。20年足らずの後、ダビデはイスラエルの王となって帰ってきて、ゴリアテと同じようにエブス人の 要塞を征服したのでした。そしてその町エルサレムを「ダビデの町」と命名したのです。

これは私たち自身ではなく神の御ことばが実現・成就 したというお話です。神のことばが成就せずに終わることは決してありません。ダビデはエブス人の侮蔑のことばに不信仰によってひるむことはありませんでし た。彼の先祖の失敗の歴史に信仰を失うこともありませんでした。そうではなく、-これが重要なのですが-ダビデは、エブス人との戦いは神の約束のための戦 いであると信仰で理解したのです。それは主がアブラハムに約束したように「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22:17)の実現 でした。ダビデは神の約束は絶対に彼を味方すると信じて行動したのです。

キリストを通して地域社会に神の圧倒的な影響力を及ぼして都市を勝ち取っていくことはアブラハムの霊的子孫が受け継いだ世襲財産であるので す。これは私とかあなたがが言っているのではなく、全能の神の約束です。神がそう言ったのであり、それを神が果たされるのです。神の民は彼らの敵の門を勝 ち取り占領します。私たちの住む都市を、私たちよりも悪魔の方がより強く保持したいと望むのであれば、それは私たちクリスチャン教会にとって非難されるべ き恥かしいことです。エルサレムをダビデが望んだのは神から出た願いでした。それはキリストから来た願いです。神の町になるためなのです。

ダビデは単純に神の約束を信じたのです。私たちもそうでなければなりません。主は「もろもろの国はあなたの光に来る。」(イザヤ60:3)と誓われました。
私たちは誰を信じるのですか?霊的に目が見えない人の助言ですか、それとも神が言われた約束をですか?イエスご自身が言われます。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)
あなたは信じますか?それとも、あなたは単に教会に集う良き不信仰者ですか?

もし私たちが失敗したら、大恥をかくのではありません。私たちは霊的ヒーローであった私たちの先人たちの仲間入りをするだけです。私たちの 先人とは「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした・・・」(へブル11:13)と言われる人た ちでした。確かに、疑いを持って生きるよりは信仰を持って死ぬ方がよいでしょう。
しかし、考えてみてください。もしも町を勝ち取ることに成功する としたら、どうなるでしょうか?私たちが神を信じ切るプロセスにおいて、主がキリストの忍耐強さとそのご性質を私たちに分与してくださり、その中におい て、主が私たちを助けて私たちの地域を主にお返しすることを実現させてくださるとしたら、どうでしょうか?
主は諸国の民が私たちの光であるキリストに来ることを約束してくださいました。それなのに、私たちが先人も出来なかったのだからと、先人の失敗を例に取り、信仰で戦い取る努力もせずに気迷う私たちの信仰のなさをどうぞおゆるしください。
私は今、主が私たちの国に偉大なことをしてくださると信じます。ダビデが信仰によっで偉大な町エルサレムを果敢に勝ち取ったように、私たちもダビデに従い、あなたの約束が必ず敵を敗北に追いやることをイエスの名において信じます。アーメン(終わり)

日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/ から取りました。

2011年11月11日金曜日

純粋なワーシップの価値

純粋なワーシップの価値 - ウエイド・テイラー

真のワーシップは、聖霊によって生まれ聖霊によって導かれます。 今まで一度も一緒に集まったことのないクリスチャンたちが、美しいハーモニーでワーシップし、人々を天の礼拝者たちのもとへといざなう時、それを見た人は 彼らはもう何年も一緒に集会をしているのだろうと思うかもしれません。

このようなワーシップの流れを生み出すのは、習得した能力の結果ではなく、彼らが主の臨在を尊び、主の臨在に応答しているからであり、 人々の霊を高揚させる聖霊の力が働く結果です。

純粋なワーシップは、人々を一つにし、その一致の故に 美しいハーモニーと豊かな表現で人々を高揚させる力を聖霊は人々に分け与えるのです。その時、天が開いて主の臨在が会衆の上に注がれます。またワーシップ は、 それが必要とされる時と場合に応じて、 この世の主権や悪霊が働くのを阻んで人々が霊的に解放されるのを助けます。

私たちのワーシップは、クリスチャンの集会に啓示の御霊をもたらします。 ワーシップする者たちの上に油注ぎや聖霊の高揚させる力を解き放ちます。主の臨在に応答するとき、私たちは更に清くされ、更に御霊のそそぎを経験し、預言的啓示を受け取ります。

歌うワーシップにおいて、美しいハーモニーで全員が歌の流れを生み出す能力は、実は私たちが救いを体験した時に 主への礼拝(ワーシップ)を表現する預言的能力を受け取ったという事と関係があるのです。この「ワーシップの霊」は私たち一人ひとりの奥深くにあって、表 現する機会を待っているのです。私たちが主をワーシップし始めるのに必要なものは、それにふさわしい霊的空気といくらかの励ましだけです。

「ワーシップ」とは、 純粋な主への敬慕の表現であり、主の臨在の中に留まりたいという私たちの願いをますます強くします。ワーシップは私たちが主の臨在に対して敏感になり、主 の御声を察知できるようになる鍵です。 主へのワーシップを忠実に表していくならば、私たちはどんどんと 内住の主の臨在に敏感になり、主の御声をもっと容易く聞き分けられるようになります。声に出してするワーシップは私たちの中にある霊性を成長させるために 大変役に立ちます。

「プレイズ 賛美」は主がしてくださったことに対する感謝の表現です。礼拝で用いられるドラムは私たちの魂をかき立てるので会衆は興奮して大声を出 します。しかし、私たちがワーシップの状態になり静かになった時には、聖霊ご自身がワーシッパー(礼拝する者)を通してワーシップされるのです。そして美 しいハーモニーのワーシップの表現が、 もっと高い主の臨在の霊的領域へと会衆を高めていきます。これはドラムのビートがあっては不可能なことです。

この「ビート」は私たちを「プレイズ」に引き降ろしてしまいますが、一方、純粋なワーシップは 天の聖歌隊の永遠のワーシップとの合体へと私たちを高めます。サタンはこのことを知っていますが、残念ながらワーシップリーダーで知っている人はほとんどいません。

キリストのからだの中には、 様々なレベルの沢山のワーシップの表現があります。 初めてフル・ゴスペルの集会に行ったとき、私は大きな音のプレイズが気になってそこを出たいという思いにかられました。私は「祝福ある静けさ」はよく分 かっていたのですが、会衆全員が 解放されて大声で歌いワーシップしているのを聞くのは初めてだったのです。しかし今は、その時主が私をコントロールしてその場に留まるようにしてくださっ たことを永遠に感謝しています。そして時間はかかりましたが、私もそのように同じ霊的自由と表現をもってワーシップすることができるようになりました。

モーセも主の臨在を知り尊んでいました。

すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」それでモーセは申し上げた。「もしあなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」出エジプト33:14-15

モーセは主の臨在が自分と共にあることを激しく求め ましたが、それはただその時にたまたま起こった感情ではありませんでした。彼の回りに起こる様々な状況や出来事が、主の臨在を熱心に求めさせたのです。

モーセは「エジプト人のあらゆる学問を教えこまれ、ことばにもわざにもちからがありました。」(使徒7:22)しかし、彼はエジプトであやまちを犯 し、荒野に逃げました。 そこで義父イテロの羊を飼っているとき、神の山に向かっていくことによって自分の人生への神の召しを追い求めたのでした。彼は遠く道をはずれたところに燃 えているのに燃え尽きない柴に気づきました。

すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は燃え尽きなかった。出エジプト3:2

モーセは燃える柴に気がつくと直ぐに「あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(3節)」と言いました。彼は主からの招きに素早く応答したのです。これはモーセの内に主の臨在への願望があったこと、そして主の臨在に対する応答があったことを示しています。

モーセは主の山にむかって歩いてはいましたが、主が現れた柴はモーセが歩いていた道から遠く道をはずれていた(distance to the side)ことに目を留めてください。これは主が人々からご自分を求められたいと願っておられるからです。主は私たちが主の臨在を願い求めることを示す応 答を求めておられるのです。主は、私たちの側から主の臨在を真に求めていることはっきり意思表示をする行動を取るときに、 ご自分を顕してくださることを選ばれるのです。

このような主の臨在に対する「霊の態度」は、簡単に持てるものではありません。それは懸命に養い求めていかねばなりません。ワーシップはこの霊的敏感さと主の臨在に対する態度を発達させる鍵なのです。

「モーセは言った。『何故柴が燃えていないのか。あちらへ行って(I will now turn aside)この大いなる光景を見ることにしよう。』主は彼が横切って(turned aside)見に来るのを御覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります.』と答えた。(出エジ プト3:3、4))モーセは神に関するもの(神の山)にむかって進もうとしていましたが、 主の臨在を心から求めていたので、この超自然的な現象に進んで応答したのです。 その時は何が起こっているのかを理解してはいませんでしたが、彼は主の御声に従順に従ったのです。

私たちは皆、私たちを取り巻くこの世の環境に左右されます。その結果、地上の事柄に関しての敏感さを、程度の差はありますがそれぞれが持つようにな ります。そして、私たちが「ボーン・アゲイン」した時、永遠の事柄を知り、それに応答する力を受け取ります。 自分が 「新しく造られた者」となったこと、新しい人生のもっと高度な霊的領域に入ったことを、内なる聖霊よって理解するのです。

主 はこの世のものを立て上げるだけではなく、私たちを霊的なものへと手引きしたいと思っておられます。このことを深く理解するならば、私たちは価値の低いも のの「道からそれて」、 主の御声と臨在にますます敏感になり、永遠のものに目を向けそれに集中するようになるのです。

現在のアメリカの霊的状態は低いので、私たちのワーシップの質を高めることは急を要しています。集会の中に主の臨在が増し加わるとき、霊的に飢え渇 いている人たちが主の臨在の顕れに引き寄せられて、私たちと共に主をワーシップするために「道からそれて」来ることでしょう。主の臨在は真に霊的に餓え渇 いている者を引き寄せるのです。

聖書学校時代に、私は先生の一人であったウオルター・ビュートラー師から非常に重要な霊的法則を学びました。それはとてもシンプルでありながら、と ても奥深いものでした。先生は「主はご自分の存在を心から喜び感謝するもの(appreciate)を心から喜び感謝される」といわれました。これは別に 特別のことには見えないかもしれませんが、主が大切にされている御思いを表しています。 私たちは皆、人から喜ばれ感謝されたいと思っていますが、主もご自分が喜ばれ感謝されることをユニークに喜ばれ感謝されるのです。主は主を喜び感謝する者 にご自分の臨在を与えられるのです。そして ワーシップを通してそれを表す者に対しては特にそうされるのです。

これが意味するところは、主が私たちの集会で何か特別に働かれたり、主の臨在で私たちを祝福してくださる時には、私たちは主の臨在を喜び楽しんだ後 で、 「主よ、あなたはここにおられます。私たちはあなたがここにおられることを知っていること、そしてそれが本当にうれしいことをあなたに知っていただきたい のです。」と十分にお伝えせねばならないということです。

私たちの音楽やワーシップ、私たちが集会でするすべてのことは、主の明らかな臨在という次元に入ることを目的としているべきです。私たちは主の臨在 に対する敏感さを養うべきであり、それによって主の臨在を認識することができるようになり、いつ「道からそれて」純粋なワーシップの声を高く上げればよい かを感知することができるのです。

モーセが燃える柴の中の主の臨在に応答して「道からそれた」とき、主は彼に語られ、主の民を奴隷から解放するための導きを与えられました。そしてモーセが民を乳と蜜の流れる土地へと導ける力を与えられたのです。

私たちのワーシップの価値は、私たちが考えるよりずっと大きいのです。私たちがワーシップするとき主が介入してくださり、私たちのために働いてくだ さるのです。そして主は天のワーシップを導く天の聖歌隊を大勢持っておられるにも拘わらず、私たちのプレイズとワーシップに応答し、その中に住んでくださ るのです。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」ヨハネ4:23

(終わり)

日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/ から取りました。

2011年11月6日日曜日

2011年以降は「愛に駆られた信仰の力」の年

マンデイ・マーティン 11月20日

乱気流の中に入ると「愛に駆られた信仰の力」が起こり、イエスを愛する人たちを燃え上がらせます。過去にリバイバルが起こったときも常に、最初に自分の名声を主の十字架にかけ、その時代の人たちの魂の救いへの止まない(熱烈な)愛をもって立ち上がった人たちがいました。

最近、ウエールスからアメリカに帰る飛行機の中で経験したのですが、途中でものすごい乱気流に出会いました。飲み物は揺れ動き、人々は回りを見回して心配し始めた頃、機長からの放送でシートベルトの着用が発令されました。

私はそのとき私のiPodを通して礼拝の歌に心を傾けながら神の栄光に浸っている最中でしたが、「愛に駆られた信仰の力」が私のうちに強く起こりました。そこで私はすぐ隣席の友人チャールス・シャンプに目をやり「私たちは今神の至福の平安Shalom
of Godの中に入って(激しく揺れ)最高潮に酔いしれている。」と声をかけところ、彼は私の言い様に対して笑いで答えました。その後突然、私は300人の乗客に向かって大声でどなったのです。「乱気流よ、ストップ!感謝します。」

それを聞いた人々は最初、私を少々頭がおかしい(おどけた)男とでも思ったのでしょう、私に向かって笑いました。しかし直ぐシーンと静かになったのです。なぜかと言えば、私が叫んだとたんに風が吹き止んだかのように揺れが止まったからです。そして飛行機は着陸するまで二度と揺れませんでした。飛行機が着陸した後、私は人々にイエスの力が風を静止したのであることを証ししながら、神に栄光をお返ししました。

「主の臨在のとりこになった真のイエスを愛する人たちが、今私たちが生きている時代を動かす」と言うことを主が私の心に入れて下さいました。今までは「恐れの風」が世界の人々を(超自然ではなく)全く普通に生きるようにしばって来ましたが、これからは、今出てきている神の人々が受けている「愛の力の風」がそれに取って代わるのです。このような風の変化に完全に従おうとしている人の前に立ちはだかるのはむなしい(頑なな)宗教(の力)です。

愛に駆られた信仰の力

力強いミニストリーとか教会においてさえ、人々は、人間的な伝統と宗教の霊に隠れて、聖霊の助けに頼るのではなく、自分自身で自分の帝国を築き上げようとしています。ですから、それらの教会の建物の外は、メデイア、音楽、麻薬、アルコールが惹き起こす超自然的現象に魅されてたむろする死にかけの魂で一杯です。彼らはこれらのミニストリー帝国の内側で吹いている「愛の力」こそが、どうせ中毒になるなら、もっともよいものであることを知らないのです。このポスト・モダンの社会に生きる人たちは、キリストとは何のかかわりもなく生きているのです。
幸いなことに、愛の戦いが今起こっていて、聖霊にフルに占有されることを選んだ人たちが、その人格と誠実さをもって世の中の潮の流れの向きを変え、麻薬文化とメデイアに踊らされている社会に変革を起こそうとしています。

今人間的・政治的であることに留まるか、あるいはすべてを聖霊に明け渡して、燃えるような愛の火によって勝利の平安と神にある喜びを勝ち取るか、その中間で迷っている教会を、神の霊がこれから来て圧倒しようとしています。そして宗教の霊が今取り扱われつつあります。神は私たちが神学的知識を持つから動かれるのではなく、むしろその逆でさえあるのです。昔の初期教会の聖徒たちは、使徒の神学(新約聖書)を入手できるようになる前には雅歌に熱中していたということが知られています。彼らに取っては雅歌がバイブルであったのです。なぜなら、この書全体が花嫁に対する花婿の親密な愛について預言的に書かれていることに彼らは気が付いたからです。

多くの初期教会の聖徒たちは、そのような超自然の力をもって歩きこの世を変えましたが、それと同時に、大変な迫害も受けたのです。あなたは最近迫害を受けたと感じたことがありますか?
今ここに、神の恩恵の時が到来しました。主の教会として愛による信仰の力が増しつつあるのです。過去十年間に撒いてきた種が育ち、これからの十年間でその実りが刈り取られようとしています。しかし同時に、神の正しいさばきもなされ、それが私たちをみな驚かすでしょう。神からよい「さばき」をいただくためには、先ず諦めることを拒否する信仰がなければなりません。御ことばと霊による真の教会があらわれ、信じることが先に来なければなりません。

神の家にいて神を愛する愛人たち

イエスはルカ18章に出てくる不正な裁判官のたとえ話の最後を次のように締めくくっています。「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

神はこれから町の人々がよい行いをするかしないにかかわらず町に来られます。それは主のからだに信仰が立ち上がるからです。社会を変革する主の愛人たちが主の家のワインを飲み始めたからです。雅歌2:4を直訳すれば「彼はわたしを酒宴の家(主の家)に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」です。

エペソ3:14-19にはこのように書かれています。「 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

クリスチャニティーは今、教科書から大きくはみ出そうとしています。もう理論でも観念でもなく、単なる人間のモラルをとやかく言うクラブでもありません。イエスが愛人のところに帰ってくるのです。「どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。」(雅歌
1:2)の時です。

父よ、今爆発的に広がって行く超自然の愛の革命が起こされていますことを感謝します。それはいかなるミニストリーの人間的な努力に基づいて、導かれ、助けられ、整えられたものではない(ことに感謝します。)

神の栄光が現れる時リバイバルを起こそうとする人間の努力は神の栄光に踏みつけられ、キリストの勝利の再臨の前にすべてのものが回復されることでしょう。栄光の雲が主の家を満たします。聖徒は今全面的にイエスを外にあらわす時です。多くの人は、いずれにしても私たちのやっていることはクレイジーだと思っているのですから、今こそすべての人に愛をもって、イエスを全面的に押し出そうではありませんか。「もし彼らがわたしを迫害するなら、あなたがたおも迫害するでしょう。」と言われたイエスの御言葉を今自分のものとすることが出来るならば、私たちは大丈夫です。

ホーリネスとは、古い時代のパリサイ人のように自分はホーリネスとしてのエリート・ステータスを獲得したと誇らしげに自称する人たちのことではないことを覚えておいてください。そうではなく、単純に言へばキリストの十字架の御業を(心から)祝う信仰者のからだのことです。彼らは信じていることを自らがあらわし、愛に駆られた信仰の力を通して神の栄光でこの地球を満たすのです。
ヨハネ 7:38に書いてあります。「 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたの教会とあなたの町が天によって裂かれるのを待つのではなく、あなたの中から砕かれた教会、砕かれた町が出ますように。そうです、主よ。アーメン(終わり)

原文はNov.18, 2010, Munday Martin “2011 and Beyond: The Year of Faith Force Driven by Love!”
http://www.elijahlist.com から取りました。
日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/?p=1465 から取りました。

2011年5月18日水曜日

母系社会的リーダシップ:共に治める

(2011年5月のクリス・バルトンのメッセージより。音声メッセージリンク

ともに治める 

創世記1章
神がアダムを作ったが、ヘブル語でアダムーは人という意味で、男と女という意味で、男(アダム)女(エバ)の両方に「治めよ」と言ったので、男女が共に、権威を持ち、治める使命を受けた。

創世記2章 

5日間の創造では、神が言葉で宣言する事ですべてを創造される、しかし動物とアダムを土地のチリから造り、アダムには神の息/魂を注ぐ。
神がアダムに「一人でいる事は良くない、助けてを作ろう」といった時に「神ご自身がアダムと関係を作るように、接する事ができる人」を指していた。

神が庭に来ていた時に、アダムは孤独を感じていなかったが、神が去った後は孤独を感じた。孤独は心の状態であり、外的な環境ではない事は判るでしょう。
「神がアダムに接するように関係を作る事ができ、アダムが神を愛するように愛する事がきるように」としてエバを作った。

アダムは目を覚まし、預言的宣言をして神と共に行った創造を終えた。
私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名付けよう。これは男から取られたのだから。それゆえ男はとの父母を離れ、妻と結びあい、二人は一体となるのである」この時点で彼らは両親を持ってないです、ですからこれは預言的な宣言です。アダムが追い求めるもので、エバが求められるものである事を預言してこの創造が終わります。

創世記3章 
蛇への呪いー悪魔と女の間に敵意をおく、子孫の間にも敵意をおく、
女への呪いー苦しんで子を産むこと、夫が女を支配する。
男への呪いー苦しんで土地と戦って生きなければならない。

ガラテア3章13節にあるように キリストは「私達を律法の呪いからあがないだして下さいました」。いばらの冠を付けられたが、いばらは呪いの象徴でもある。

ヘブル語で「助け手」は19回聖書ででてくるが、16回が神ご自身を現し、3回はエバの事を現しています。助け手が必要だといわれた時にそれは「私のような人があなたには必要です」と言ったのです。堕落した時から、男が女を支配するようになったが、それまでは「共に治めるもの」であった。

聖書の読み方は文脈的であるべきです。
聖書には「全人類の為に書かれたストーリー」と「特定の人、状況に対して書かれた手紙」があります。
創世記や福音書などは前者言えるでしょう、そして使徒書簡が後者と言えます。

多くのクリスチャンは知っていると思いますが、女性が教会に入って来たら「唖」になる事は無いでしょう。
しかし、多くの教会はパウロの書簡を使い、女性に権威を与えない用にしています。例えば「女性をが教会で権威を持つ事は許さない、教える事は許さない」ならば、
「子供の教会では教えられる」ならば、パウロの書簡では「男性に教えてはならない」と書いていないのでその時点で聖書の教えを破っている事になるでしょう。
聖書の解釈を個人的にしているようにはならないのでしょうか?
もし、パウロが書いた手紙の宛先の教会と全く同じ状況があるなら、適応できるかもしれませんが。。

私のポイントはこれらのパウロの書簡が全ての教会に全人類が適用する為に書かれたのでなく、特定の場所と事柄に書かれた事であって、もし今のあなたの教会に全く同じ問題があるならば、それで適切かもしれませんが、パウロが手紙を書いたのは今の私達の教会にではなく、コリントの教会に対しての物です。例えば、コリントの手紙、新しい契約の人として、また旧約ではレビ記がありますが この所からは神が特定の事柄にどのように指示を与えるのかを見る事ができます。
特定の事柄に書かれたアドバイス、カウンセリングを全ての状況の上に適応しても、状況をあがなう事ができるのでしょうか?

例えば、離婚に関してですが、私が既に離婚済で、悔い改め、心の砕かれた人に対して、
私はこういうアドバイスをするでしょう。姦淫の罪が許されない罪ですか?もしそうであるなら、クリスチャンを殺害して生きていた人がー偉大なる使徒パウローとされる事がおかしいと思いませんか?しかし、あなたが離婚したならあなたの人生は終わりである!となるのでしょうか? 

私達の助言があなたの人生の歴史ではなく助言はあなたの神からの運命の為です。キリストのあがないの力を取り去ってしまうならあなたはキリストの思いを持っていないのです。
私が先ほどの人にはこういうでしょう「離婚は許されない罪ではなく、教会の中で50%は離婚をしている人がいます。神はあがないの神です、殺害者であったパウロをあがなった神はあなたをもあがなう事ができます」

そして、次の日にはこれから離婚をするつもりだと言う人に会うでしょう、そして私は全く違うアドバイスをするでしょう。「結婚は永遠です、あなたは契約をしています、モーセは離婚の証書を与えましたといっても、それはあなた方の心の固さの為です。。」と。(イエスは彼の暮らした文化、女性が物のように、車のように扱われた時代でこの事を言っているのです。イエスがパリサイ人と弟子達にこの事を言った時に「それなら結婚しない方がましです」と彼らはいいますがイエスはそのような分かに対して「契約」を語り思い起こさせるのです。)

ここで私は二つのまったく異なる状況に「主のあがないの力の言葉」を語っているのです。「神はあがないの神なので、結婚を回復し、もい一度愛し合うことができる、使徒パウロは殺人者であったが、彼はあがなわれたでしょう」私は同じ言葉を違う目的の為に使う事ができるのです。私の言葉はどちらも真実なのです。その状況が道徳的にどうだと言っているのではないのです。私達は御言葉を特定の状況に対して適応します、私は悔い改めた人とそうでない人に異なる言葉を用います。

ですから、ポウロも同じ事をしているのです、状況を理解するのなら私達も同意すると思います。
パウロの書簡は全人類に向けて書かれたものではなく、特定の教会の問題に対して対処する為にか書かれた物、人々が間違った行いをしている時に、秩序からでてしまった時に指示をしています。

イエスは人類をあがなう為に死なれた。しかし、私達が聖書箇所をあがないをもたらさないように用いるならそれは失望感を作る事になり、人々の神からの運命を人の歴史に縮小する事になる、それは私達が福音のポイントを見失っていることである。人々を性別、社会的立場、年齢によって制限したり、力を奪っているならば 私達は福音のメッセージ、御国のメッセージをねじ曲げているのです。

聖書を文脈を理解して読む事をしなければ、奴隷制度を励まし、女性から力を奪うことになってしまうでしょう。
パウロがテモテに書いた手紙の「奴隷の態度」に対しての言葉から奴隷制度を保つ事が福音を守る事だと思い、クリスチャンが南北戦争を始めた事を多くの歴史家は信じています。一定の文化の中に書かれた言葉を全人類的に適用してしまう事はできません。

私達のムーブメントの中の多くの教会では、女性を教会の中で制限する事があっても、教会の外では制限しませんと言う事があります。
女性が政治やビジネスのなかでリードするのはかまわないけれども、教会のなかではさせないと。
呪いのある、世の中で女性は力を与えられ、のろいの砕かれている神の御国の中では彼女達は制限されるのでしょうか?

このような事を時には考えなければなりません。
聖書の中にある25カ所の女性に力を与える場所があります、そして3つの箇所が制限を与えると言えるでしょう。

女性に男性のように導いてもらう必要は無いのです。世が必要としているのは母親的女性的なリーダーです。憐れみや、直感があり、養育する事ができ、
社会を愛する事ができるような場所として生み出す事ができ、ケアを与える事ができる。

しかし、これは私の個人的な観察ですが、女性が教会でリードするなら、男性のように働いてしまうようですが、すでに男性はリードしているのですから、私達は女性が必要です。アダムが助け手が必要だったように、「同じ性のリーダー」ではなく「ベターハーフ/異なる半分」が必要なのです。

教会や社会のリーダーシップでは多くの場合男性がその地位を占め、ある特定の方法をもって行うリーダー像があります。
ですから、女性に対して「ここに入って来くるならば、男性のようになって下さい」と言うのです。

女性が女性らしくリードして、男性が男性らしくリードするなら戦争が少なくなると思いませんか
女性が直感的に、養育的に、ケアをしながら、母系家族のようにリードする事ができるならば、女性が自然に与えられいて、男性には無いものが用いられるでしょう。

男性も女性なしでは、私の母の逆の用で 本当の男性としてリードする事はできないでしょう。
父系家族型の働きがベストであると言いきる事もできないでしょう。

イエスが私達をあがなったとき、創世記の1章よりも高い所に私達を導いたと思います。
夕方の涼しい庭に訪れるだけでなく、庭に住まれています。
たとえば、どうでしょうか、もし女性を創世記の1章に戻して、男性と共に、治めて、一緒に導いて、心から流れるように導いて下さいと言ったならば 何を見る事ができるでしょうか?
1コリ11

神はキリストのかしらであり、男はキリストの頭であり、男は女の頭である。
神はキリストを養い育て、天において共に座らせ、共に治めさせ、全ての名に勝さる名を与えた。
キリストが男の頭ならば、男をキリストにあって高くし、女性より高く置いた、そのテストはなんですか?キリストはあなたを圧迫しましたか?それとも力を与えましたか?

エペソ5 21 互いに従いなさい、
     22 妻達よ あなた方は主に従うように自分の夫に従いなさい。
     25 夫達よ、キリストが教会を愛し、教会の為にご自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。

まず、互いに従う事をイエスがおしえ、そして妻が「従う事」をリードする事を女性に与えている。誉れを与える事のリードは女性に与えられた。互いが従うけれども女性がリードをする。
しかし、女性は男性の為に命を捧げる事は言われていない、男性だけが女性の為に命を捧げるように命じられた。夫が妻を守るように命じられ、その価値を妻に与えている。

著:クリス・バロトン
訳:相馬伸子

2011年2月1日火曜日

ソーキング:神の臨在に浸る 

会話の後半部分
イエス様は、「求めなさい、そうすれば与えられます」と言われました。私たちは求めるのは得意なのですが、、、「受けること」はどうでしょうか?私たちの側だけが話していれば、かなり一方的な会話になってしまいます。ソーキングとは、主との会話の「聞く」部分です。横になって、主から受けるために時間を割くことです。

ただリラックスする
神様と出会うことの主な妨げは、私たちのガンバリです。神様からの最大の助言は、「ただリラックスしなさい」ということです。詩篇46:10で神様はこう言っておられます。「静まって、わたしこそ神であることを知りなさい。」神様を知る方法は、平安と静まることによってです。

静思の時(クワイエット タイム)
外側が平安な環境になることは、私たちの内側が平安になることを助けます。ソーキングをする時は、静かなインストロメンタル音楽か、あるいは、ワーシップ音楽をかけて、横になるのです。最初は、いろいろな思いで頭がいっぱいになるでしょうが、その思いと争おうとしないことです。思いが静まるのを待って、私たちの思いを聖霊様にゆだねるのです。主が私たちの霊の中におられることを思い巡らし、主がすぐそばにいてくださることを信じるのです。気がそらされても、いらだたず、もう一度思いを主に向けるのです。

横になる
私たちは、横になることが、一番良い姿勢であることを発見しました。肉体的にリラックスし、主に集中する助けになるのです。横になることによって、神様に対して自分たちのやりたいことを明け渡すという意思表示になるのです。自分の支配権を主にゆだねるのです。聖霊様に身を任せるのです。愚かに感じ、プライドが傷つくかもしれません。ソーキングはへりくだる行為です。

ヒューマン・ビーイング(英語で人間の事)(ヒューマン・ドゥーイングではない)
最初に心の中で、マリヤとマルタの葛藤があるかもしれません。私たちはとかく、マルタのように何かを「しなければ」と感じます。しかし、ソーキングはマリヤ的時間です。マルタはイエス様に仕えることの忙しさに捕らわれてしまいました。ソーキングは、自分の努力でどれくらい達成できるかということではありません。私たちの内における神様の働きなのです。

子供のような信仰
ソーキングとは献身です。「神様、この時間はあなたのためです。」
ソーキングとは招きです。「神様、あなたの望まれることを私の内に行ってください。」
ソーキングとは期待です。「天のお父様、私があなたの中で安らいでいる今、私の内で成し遂げてくださっていることを感謝します。」子供のように主のもとに来て、主が私たちの内で良いことを行ってくださっていることを信じるのです。「あなたがたも…自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13) 

休息と回復
ソーキングは、詩篇23篇的体験です。主は私たちを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。私たちのたましいを生き返らせてくださいます。この回復の過程の中で私たちは肉体的あるいは感情的に何らかの反応をするかもしれません。聖霊様が私たちの中で働くにつれて、私たちは笑うかもしれませんし、あるいは涙を流したり、からだが震えるかもしれません。聖霊様が幻を与えてくださったり、いやしたいと願っておられる記憶を思い起こさせてくださるかもしれません。多くの場合、深い安息に入りますし、実際に寝てしまうかもしれません。たとえ何を感じなくても、主が私たちの霊の中に働いていてくださることを信じるのです。

ぶどうの木にとどまる
神様と親密になることは私たちの人生のあらゆる面で実を結ぶ鍵となります。私たちが自分のうちにある主の臨在に気づけば気づくほど、私たちの周りの人たちもそれに気づきます。私たちが自分のうちにある主の臨在に影響されればされるほど、周りの人々もそうなります。神様と共に隠れ場で時間を過ごすことによって、毎日の生活の中で霊によって歩むようになります。神様のために何かを成し遂げようとやっきになるのではなく、私たちを通して主がご自分の御国を建て上げてくださるのを発見するようになります。「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ4:6)

どのようにソーキングをするか
居心地良く横になれるところを探す。
忙しく動き回る思いが静まるのを待つ。(その思いと闘わないようにしてください。)
聖霊様の臨在に浸してくださるようにお招きする。
自分自身(思いも体もたましい)を、祈りながら聖霊様に明け渡す。
自分の中にある主の臨在に焦点を合わせる。
主が自分自身の中で働いていることを信じ、信仰によって安息する。
できるだけ時間を取る。(リラックスし、受け取り始めるのに、自分に少なくても20分を与えてください。)
リフレッシュされ、聖霊に満たされて起き上がる。
自分と自分の周りの世界を神様が変えてくださるのを見てください。

ソーキングに関するみことば
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23:1-3

…床の上で自分の心に語り、静まれ。 セラ
詩篇4:4

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
詩篇37:7

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイ11:28-30

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
ヘブル4:9-11

静まって、わたしこそ神であることを知れ。
詩篇46:10

疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ40:29-31

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
詩篇27:14

ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
イザヤ55:1-3

彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
ルカ10:39

・インターネット上の「ソーキング・サイト」   (文責 グドール ジェラルド)
疲れを覚えている人がたくさんいる現在、アメリカなどではソーキングが燎原(りょうげん)の火のごとく拡がっています。そして、インターネットのウエブサイトを通して、良質の「ソーキング・ミュージック」が無料で提供されています。コンピュータを通してインターネットにアクセスできる方はぜひ利用してください。

ここに二つの「ソーキング・サイト」を紹介します。

●Soaking With A Purpose (SWAP) http://www.soakingwithapurpose.com/
「目的をもったソーキング」という名前のこのサイトは、豊富な種類のソーキング・ミュージックを提供しています。このサイトのホームページの、GENREというタブをクリックしてください。そうすると、様々なジャンル別のソーキング・ミュージックを聴くことができます。聴くだけでなく、ダウンロードすることのできる曲もあります。ことばの入らないインストロメンタル曲もありますし、ことば(英語)の入った曲もあります。
私は、ブライアン・ロングリッジ(Brian Longridge)という人のソーキング・ミュージックが好きです。そのなかでも、”Longing”(切望とか、あこがれという意味です)という曲が好きです。いくら聴いても飽きない、主の臨在あふれる曲です。ソーキングの時によく聴きます。

●Soaking.Net http://www.soaking.net/
これは私が最初に出会ったソーキング・サイトです。ホームページにミュージック・プレイヤーがあり、クリックすれば24時間ソーキング・ミュージックが聴けます。上の方にある、ミュージック・プレイヤー(Music Player)をクリックすれば、ことばの無いインストロメンタル曲(Music Only)が聴けます。その下にあるミュージック・プレイヤーをクリックすればことばの入った曲(Songs and Music)が聴けます。気に入ったソーキング・ミュージックがあれば、CDを購入したり、ダウンロードをすることができます。

この他にもソーキング・サイトはいくつかあるようです。是非ご自分で探してみてください。

CTFミニストリーズ「ソーキング」パンフレットより翻訳、グドール ジェラルドから届きました。)

2010年11月30日火曜日

私たちは神の同労者 - ビル・ジョンソン

すべての願望(desire) には父がいる

英語のdesireと言う言葉を分解しますとdeがofで sireがfatherですから、all desire is “of father” 「すべての人間の願望は父のもの、父に属する」と覚えておかれたらよいと思います。となると、私たちのすべき質問は「私の願望は神からのものか?」である前に「私は誰と親しく交わってきたかcommunion?」であるべきです。私たちは神と親しい交わりが持てると同じように、敵とも親しい交わりの関係が持てるからです。

数年前に私はある人からひどく侮辱を受けたことがあります。それを思い出した時、神がその人を裁いてくれたかどうかに考えがいくのであれば、その人に仕返しをしたいと言う願望が私の心をかき立てます。どうしてでしょうか?それは、私が苦々しく思うことの父と交わってきたからです。そのような願望は、私の心の中でその父の子どもとして存在してきたのです。

悪と交わることが私たちの心に悪い思い(願望)をつくりだすとすれば、神と交わりを持つことが、私たちの心にどれ程永遠の思いと究極的に神に栄光を返したいという願望をつくりだすと思われますか。これで気がつくことは、このような願望は命令されて出てくるものではないと言うことです。それは神と交わりを持つから私たちの心にそのような思いが出てくるのであって、これらの願望は神との交わりの関係によって生まれてくるものです。

この本を書いた主な目的は、クリスチャンが神と本当に親しい交わりを持ち、その交わりの中で生まれた願望で生きることをみなさんにお教えし、そのよな生き方をお勧めしたいからです。多くの信者は、自分の願望(欲望)というものの価値をうんと割り引いて、あまり値打ちのないものと考えています。そして、自分が神にすべてをささげていることを実証しようとし、自分の欲望はすべて自動的に否定し排除しようとします。それは確かに宗教的にアッピールします。しかし、自分をなくそうとするセルフレスなアプローチが行過ぎると、「自分のしたいこと」が神の御心である場合(神から来たもの)でさえも否定しようとします。こうして実際に、神とは、信者に夢とそれをかなえる力を与える父であるという事実を否定してしまうのです。

多くの人は、神の御国に入ることと神の国での生き方との違がよく見えていません。私たちは「自分の思いではなく、神の御心がなされますように」と言いながら、まっすぐで狭い道を通って御国に入ります。入り口は一つイエス・キリストです。真のいのちを見つける唯一の道はキリストにあり、自分を完全に主に差し出して中に入るのです。

しかし救いの狭い門を通って入った後の神の御国の中での生き方は全く違うのです。この中に入ってからは、主は私たちに「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼ばない・・・あなたがたを友と呼びました。」(ヨハネ15:15)と言われるのです。そしてその意味において「何でも欲しいものを求めなさい。あなたがたのためにそれがかなえられる。」(ヨハネ15:7)と言われたのです。

ここでの強調点は「何でも欲しいもの」にありますが、確かにイエスの言われることには重要な前提があることをよく理解しなければなりません。さもなければ、キリストを信じる信仰告白をさせることによって、もっと多くのセルフィッシュな人を造り出すことになりかねません。

十字架がよみがえりの前に来るように「自分を捨てて主の御心に従う」ことが「神が私たちの欲しいものをかなえてくださる」ことの前に必ず来なければなりません。
しかし、そのことの強調のし過ぎは別の危険性を生み出します。「自分を捨てること」を強調し過ぎると、クリスチャンは自分の願望が全く叶えられない者であると誤解されてしまい、それでは、この地上において私たちが真のキリスト(の福音)を正確にかつ効果的に伝え広めることが出来なくなります。

いのちの木

箴言13:12に「・・・望みがかなうことは、いのちの木である。」とあります。これはソロモン王が書いたと言われますが、まさにこの世で「望みがかなった」ことの例としてソロモンの右に出る者はいないでしょう。ソロモン王は「思っていた(心に願っていた)すべてのことを見事に実現した。」と2歴代誌7:11に書かれています。勿論、ソロモン王の人生の後半で彼が神に不従順な生き方をしたことの結果から学ぶことも出来ますが、それ以上に、彼の最初の頃の神への従順な生き方を喜ばれた神が、彼の望みのすべてをかなえられたという事実からこそ、私たちはより意義深い教訓を学ぶことが出来ると思います。

ソロモンの物語から創世記(エデンの園)にあるいのちの木とアダムとエバが持っていた永遠のいのちとの関係が思い起こされます。ここでキリストを信じる者がいのちの木によって「すべての望みがかなえられる」経験をすることが書かれています。キリストにおいて「すべての望みがかなえられる」ことの味を知った人は、永遠のいのち(を生きること)の前途perspectiveとそれが意味するアイデンティテイーが見えてきます。自分を捨てること、個人的トランスフォーメーション、自分の望みがかなえられること、という三つのプロセスが、私たちがキリストと共に永遠に支配するための訓練の場となるのです。

ヨハネ16:24で主は、私たちの望み(祈り)をかなえたいと言うお気持ちから「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。
道理で今の教会には喜びがありません。私たちの回復された心で祈る私たちの祈りが、地上において私たちが参加する神のご計画をあらわすのです。そして、その祈りが神によって聞かれて、かなえられる時に私たちに喜びが来ます。特に、神の超自然の力を必要とする祈りの場合には、それがかなえられた時の私たちの喜びは大変に大きいはずです。

喜びに満ちたハッピーな人たちと一緒にいることは楽しいことです。ですから、イエスは罪人たちの友達仲間であると言われ(ルカ7:34)彼の周りにいる人たちと大いに喜び楽しんだことがうかがい知れます。いつも毎日、イエスは一緒にいる人たちと、祈りが天の父によってかなえられる日々を過ごしたのですから、その喜びは特別に大きなものであったのです。イエスの喜び方は極端なものであったと言われますが、主の喜び方は、「叫び、飛び上がって喜ばれた」と書かれています。
そのようなイエスの近くにいるだけで喜びに満たされるのです。イエスを懐妊していたマリヤが近づくと、バプテズマのヨハネは彼の母親の胎内で喜び踊りました。

マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と書かれていますが、私たちは祈っているときに神の臨在に満たされます。そのような臨在の中で浮んで来る願望に私たちは心を留めるべきです。主と深く交わっている時に何かが起こり、主が私たちの夢想したり願ったりする能力にいのちをくださるのです。主のご臨在に出会うことによって、私たちの心は新しくされ、その完璧にされた心のキャンバスの上に主が絵を描かれます。
神の地球におけるマスター・プランを具体化するために、私たちは神の同労者(一緒に働く者)co-laborersになるのです。私たちの持つ夢は神から独立したものではありません。むしろ神ゆえに存在するのです。神はご自身のご計画を設計し、それが「天で行われるごとく地でも行なわれる」ように私たちに示され、私たちがそれを実行して実現に至らせるのです。

私たちが主とより親密な関係を持つようになると、私たちの人生で起こることの大部分が、私たちの願望が実る結果として起こるようになります。それは単に天からの具体的な命令を受けてそれに従った主への従順の結果から起こることを超えたものです。神は私たちの望みとか願いを建上げていくことを好まれる方であるからです。

このクリスチャンのデスティニ-(究極の生き方)は、イエスの血潮が私たちにそのような生き方を可能にしてくださったずっと以前にダビデによって下記のように言い表されました。

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4) 
(終わり)

訳者注:このメッセージはビル・ジョンソン師の著書 Secrets to imitating God「神に似る者になるための秘訣」から抜粋要約したものです。
訳者:坂 達也
http://www.banministries.org/

2009年9月8日火曜日

超自然的な賜物

クリスチャンの歩みは、不可能なものの集結です。クリスチャンとして私達が行う事で、聖霊の助け無しに私達が行った所で、何か特別の価値や意味のあるものはありません。聖霊の助け無しにやろうと思えば、おそらく多くの事が可能でしょう。しかし、神無しには成し遂げる事の不可能な課題を目の前にして、私達の心は神を恐れるのです。

だからこそ神は言っておられます。

「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。ルカ12:32」

何をそんなに恐れることがあるのでしょう。不可能な御国をです。この真理をはっきりと理解する時、神が下さる賜物を手にしながら、あなたは震えが止まらないはずです。ようこそ、あなたは不可能なものを可能に変えて行く御国の世界へと、迎え入れられたのです!

私達それぞれに下さった奉仕の賜物は、素晴らしいものばかりですが、それらが素晴らしいのは、神の息そのものが、そこに吹き込まれているからです。それが無ければ、どれほど周囲の人々から賞賛を得ようと、互いに拍手をし合おうと、永遠に影響を与えて行くものは、神が吹き送られる聖霊の息を帆で受け止める舟のように用いられる賜物だけなのです。

風と共にあって初めて、そこに目的があるのです。風がなければ、帆には目的はありません。私達が自分自身を、また自分に与えられた賜物を超自然的な息と共に捧げる時、真の目的の為に、それらは用いられて行くのです。

2009年6月5日金曜日

リバイバルが来ます! Pt. 2:標準的なクリスチャン生活

(「リバイバルが来ます... 準備を整える時です!」の続きです。)

全てのクリスチャンの内には「不可能な事」に対する飢え渇きがあるのが当然です。なぜなら、私達の内には不可能とされるものがイエスの御名の前に「可能になる」、このような奇跡を要求する霊的DNAが組み込まれているからです。

奇蹟が起こらないのは神の御心ではないのです。それは私達の「思い」に問題があり、私達は変革 - 思いの一新 - される必要があるのです。そしてこの変革は、必死に追い求める人に働いてくださる、聖霊の働きによってのみ可能となるものなのです。

もし私達が、イエスは病人を癒すことも、悪霊に悩まされている人を解放することも、そして死人を生き返らせることもできなかった、と信じるとすれば、それはイエスがご自分について語られていることを無視することであり、何よりもそれ以上に、イエスが人として生きるために自らを制限の下に置いてくださったその目的を見失うことになります。

イエスはご自身について、「子は何もすることはできない。」と語られました。(ヨハネ五・一九)

イエスは百パーセント神であられたにもかかわらず、私達人間が向き合うのと同じ限界の中で生きることを選ばれたのです。つまり、イエスは人としては超自然的な能力は有していなかったと言えます。イエスはそのことを何度も話されました。イエスはその点で、「不可能に立ち向かう」という働きにおいて、私達の模範となられたのです。イエスは「神」としてではなく、「神と正しい関係にある人」として、奇蹟としるしと不思議を行なわれたのです。もしイエスが神として奇蹟を行なわれたのなら、その働きは私達には到底不可能ですが、イエスが人として奇蹟を行なわれたのであれば、私達には彼の生き方を追求していく責任があります。この簡単な真理を再認識した時に、私達の全てが変革され、教会の中におけるイエスのミニストリーを完全に回復することが可能となるのです。

イエスの人間としての特徴は何でしょうか。
  1. イエスは、彼を父から引き離す、いかなる罪も犯されませんでした。
  2. イエスは、ご自分を通して働かれる聖霊の力に完全に拠り頼んでいました。

私達の人間としての特徴は何でしょうか。
  1. 私達は、イエスの血潮によって聖められた罪人です。イエスはご自身を犠牲にすることによって、彼を信じる全ての者のために、罪の力と影響力に完全に打ち勝ちました。今私達を父から引き離すものは何もありません。
  2. 私達は、聖霊に拠り頼んで生きることを、どれほど喜んで自分の生き方とできるでしょうか。

正に今この時こそ、私達のビジョンを変革する時です。もし預言者に「あなたのビジョンは小さすぎる」と語られたら、多くの場合人は自分の期待している数を増やすことを考え始めます。例えば十人の救いを祈っている人は、それを百人に拡げるでしょう。もし町のために祈っているとするなら、それを国々に拡げるでしょう。しかし私達の反応がこのようなものである限り、これからも同じ間違いを繰り返すことになります。数が増えることそのものは、神の視野から見てそれがビジョンの拡大であるとは必ずしも言えません。なぜならビジョンは自分のアイデンティティーと目的を知ってこそ誕生するべきものだからです。自己像の変革を通してのみ、神にある目標を設定することができるのです。そしてそれは神の啓示から全てが出発し、私達の内に変革を生み出すものでなければなりません。

信仰が要求されない信仰姿勢を抱き続けることほど危険なことはありません。それは神のご性質と、全ての御言葉が宣言していることに反するものです。エペソ三章二十節で神は、『私達が願うところ、思うところの全てを越えて豊かに施すことができる方』とあります。その神が約束し、計画された全てのことは、今私達の知性と期待にチャレンジを与えているのです。それに対し、『(エルサレム)彼女は自分の末路を思わなかった。それで、驚くほど落ちぶれて・・・』とあるように、神の約束を忘れ去った結果はどんなに悲惨なものでしょう。私達は、神にとってふさわしい者とされているのに、自分はふさわしくないとの思いで凝り固まってしまい、また、神には「おできになる」のにそれ以上に、自分の「できない」ことに大きく捕らわれてしまっているのです。神は、恐れるギデオンを勇士と呼び、揺れ動くペテロを岩と呼んでくださったと同様に、私達をこの地におけるご自身の愛する子の一人として召し出してくださったのです。それは私達にとってどんな意味を持つのでしょうか。

「天が地に侵入するとき」ビルジョンソン著 © 2003
Destiny Image Publishers (167 Walnut Bottom Road, Shippensburg, PA, 17257 www.destinyimage.com)の許可を得て記事掲載しています。日本語版Onfire Japan出版 www.onfire.jp

2009年5月22日金曜日

リバイバルが来ます! Pt. 1:準備を整える時です!

過去のリバイバルを見てみると、私達が期待している形で、また私達の望む通りにそのリバイバルが来るとは限らないようです。

イエスが見せて下さったように、 リバイバルは地上での神の国の現れです。それは様々な形で現れます。ある過去のリバイバルでは,町全体、時には国全体の人々が救われる程、神の圧倒的な働きが吹き荒れました。また他のリバイバルでは,同じぐらいの神の力のしるしがあっても、町や地域にそれ程大きな影響は与えませんでした。

あるリバイバルは急に訪れ、同じぐらい急に消えさっていきました。ここ百年を振り返っても、一定期間、ある町や国全体にリバイバルが起こり、多くが救われましたが、現在はその場所でかつてのリバイバルの影響を目にする事は殆ど不可能な場所もあります。

しかし、ひとつ確かなことは、リバイバル−神の御国の圧倒的な現れ−は世界にも、日本にも必ず来るということです!どのようにそのリバイバルが来るか、その具体的な形と現れは私達には分かりません。

私達のできることは、来るリバイバルの中で全ての祝福を受けるために、 今、自分の心や人生を整えておく事です。私達が住んでいる国、町、コミュニティの現状とは関係なく、私達は自分の内にリバイバルを受ける事ができるのです。

そのために、過去のリバイバルや現在世界で起きているリバイバルを見て学ぶ事ができます。イエスはこう言われました。
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 (ルカ十七・二十)。
イエスが強調されたのは、リバイバルは人の心や人生の中に、まず初めに訪れると言う点です。

この記事のシリーズを通して、今から来る、主が約束されたリバイバルのために、日本のクリスチャンを励ましたいと思います。前述の通り、その形、現れは分かりませんが、私達の人生、家族、教会、コミュニティの中からリバイバルの火を起こす事によって準備ができます。そうしていくうちに私達の人生の中で、今まで見た事の無い主の御国の現れを見る事でしょう。

神様が今度のリバイバルの中でどのように働かれるかを知るために、過去や現在のリバイバルの話を見ていきたいと思います。神様が再び御業を現して下さると信じる信仰を築くための鍵の一つは、過去の御業を思い出す事です。証しを覚えることは、将来の主の働きを「預言」として呼び起こすこととなります。
「イエスのあかしは預言の霊です。」(黙示録十九・十)


同時に、リバイバルを育て、守っていく責任が私達にあることを自覚しなければいけません。リバイバルは何気なく来るものではありません。ペンテコステの日には、屋上の間に集まっていた信者の間にリバイバルが急に訪れましたが、その前の数ヶ月間の激しい試練の時や、直前には十日間の祈りの集まりをしていました。リバイバルには準備の期間が必要です。

また、預言のことばに正しく応答しなければなりません。預言というのは自動的に成就されるとは限らず、神様が示して下さったまだ成就されていない約束を信じてそれに歩むように、教会を呼び起こす役割があります。ダニエルがエレミヤの預言によって将来のことを悟ってから、「 顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。」ことによって、この原則を示してくれています。(ダニエル九・二)

私達はみことばによって、主がその「霊を全ての人に注ぐ」という約束を知っています。(ヨエル二・二八)御国が日本に来ることを神自身が望んでおられる事も信じます。神様は、すべての日本人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられることは真理です。(第一テモテ二・四)この約束を理解すると、ダニエルと同じように、祈り、断食し、自分をへりくだることによって応答しなければなりません。

このシリーズでは、カリフォルニア州レディング市ベテル教会のビル・ジョンソン師のメッセージから引用し、彼らの証しを分かち合っていきたいと思います。ビル・ジョンソン師には、特に信者の心の中に、リバイバルの火を燃え立たせるための特別の油注ぎがあると思います。

誰の話であっても、過去や現在の主の素晴らしい御業の話を出来る限り聞いたり、読んだり、一緒に分かち合ったりして下さい。なぜなら、主がまた同じようなことをなさるからです。そしてそれは私達の日本にもそうなる約束です!

2009年3月20日金曜日

愛するものよ、私の名を呼んで欲しい、、、

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(詩篇 145:18 )

この御言葉をとても分かりやすく説明しているのを耳にした。あるアメリカのクイズ番組で、クイズの挑戦者を、番組の司会者が、会場に来ている観客の中から選出するというものがあるらしい。司会者に名前を呼ばれたその人は、次のクイズの挑戦者として、ステージの上に招かれ、その後の番組の一部始終に参加し、その様子が放送されるというのだ。

司会者が独特の口調で会場の期待感を大袈裟に膨らませ、場内の音楽も緊迫感溢れる中、選び出した会場の観客の名前を高らかに呼び上げる。その後の情景はお察しの通り。選ばれたその人は叫び声と共に飛び上がり、顔を紅潮させながら、中には涙を流してその瞬間を迎える。クイズに答えて番組に参加するのはこれから先の話しなのだが、まずここまでが、この番組の大きな見所の一つらしい。

「私の名前が、呼び上げられますように!」会場の全員がその思いで、その瞬間を待ち望む。ある者は椅子から半分身を乗り出して、ある者は息をするのも忘れて、ある者は両手を合わせて祈っている。「どうか、私の名前が呼ばれますように!!!」

天のお父さんも、私達が地上で父の御名を呼び上げる瞬間を、同じように待っておられる。神様は私達に自由意志を与えられた。本物の愛の関係を私達と結ぶために、私達が自分の意志で神を愛する選択を選べるように。御父は決して無理強いをしない。私達を創造された時、神を愛し、必ず神に従うよう私達人間をインプットする事も、神にとっては可能だったはず。でも、神は敢えて私達に、選択肢を与えられた。本物の愛の関係を、私達と結ぶために。

だからこそ、私達が望んでもいないのに、突然雷のように天から降って湧いてきて、私達の置かれた状況に介入されたり、無理矢理私達の心の中に割り行って来られたりはしない。ただ、私達が神の名を呼び求めるのを、ずーっとずっと、待っておられるのである。時に自分の手で創り上げた大切な子供達が、罪の中で自分を苦しめ、互いに痛め合っている姿を涙を流しながら、それでも、じーっと見守っておられるのである。

私達は時に、敵によってとても歪まされた「偽の神様像」を信じ込まされている。

「神様は、こんな罪ばかり犯して、清くもなく、正しくもない自分の事にはうんざりされているはず。」

「私達の祈りなんて、神は聞いて下さりはしない。」

「世の中がこんなに崩壊しているのは、神からの天罰だ。人間の犯して来た罪のせいだ。」

「毎日祈って、毎日聖書を読んで、まじめに一生懸命頑張ったら、もしかしたら神は私の祈りにも耳を傾けて下さるかもしれない。」

こんな嘘を信じてしまっているなら、そんな時こそ、天のお父さんの本当の心を知るための、新しい啓示が必要な時かもしれない。思いが新しくされる必要があるのかもしれない。

お父さんは待っておられる。天の腰掛け椅子から、半分腰を浮かして、その名が呼び上げられる瞬間を。私達が父の名を呼び求めるその時を。

「今度こそ、私の名を呼んで欲しい。今すぐそこに行って、あなたをその苦しみから救い出す事ができるのに。」

「私の御名によって求めなさい。天の倉の扉を開いて、今私がその祝福をあなたに降り注ごう。あなたの必要を遥かに越えた、余りある恵みを降り注ごう。」

「私はあなたを見捨てない。あなたを離れることはない。私の心のただ中に、あなたがいる。」

「あなたが、愛おしくてたまらない。」

2009年2月10日火曜日

「赦す事」と「癒される事」 - 大切な御国の原則

カリフォルニアのストックトン市から、ベテル教会のカンフェレンスを訪れ、その時、ヒーリングルームで素晴らしい体験をされたセラという女性の証しから紹介します。

5、6年前のことになりますが、彼女の両肩の痛みが始まりました。その時まで、バスケットボールに熱中していたセラは、あまりの痛みに医者に行き、バスケットボールをやめるか、非常に危険な手術を受けるかの選択を強いられ、結局バスケットボールをやめる選択をせざるを得なくなってしまいました。 彼女のような若い女性が煩う事は稀である症状という事ですが、その後、痛みは常に続き、彼女は何回も祈ってもらい、一時的に癒しを体験しますが、毎回同じ痛みが戻ってきていました。 最近、右の肩の痛みがひどく増し、カンフェレンスに来てから、10回も祈ってもらいましたが、毎回痛みは戻り、逆にひどくなりました。ヒーリングルームに来た際、ある女の人に祈ってもらっていた時に、その女性が彼女に「コーチを赦さないといけないと強く感じます。」と言いました。セラは、それを聞いて、ぼろぼろ泣き出しました。 実は、その痛みが始まった5、6年前、彼女のチームに新任コーチがやって来て、当時リーグ戦の2位だった彼女達のチームを最下位に陥れ、彼女を含め、チームメンバーの全員の人生が彼によって台無しにされてしまいました。結局チームを無理矢理にやめさせられたセラは、その時からコーチに対し恨みと赦さない気持ちを抱えてきていたのです。

今回、ヒーリングルームにきてそれが明らかになり、コーチを赦し、彼を祝福する祈りをした瞬間に、肩の痛みが去っていきました。考えてみると、つながりが見えて来ます。バスケットボールやめさせられて、コーチに恨みを抱いてから2週間後に、この痛みが始まったのです。

この証しは、「今週の証し」の中でも紹介しましたが、大切な御国の原則が見えています。イエスの話を見てみると、人を赦す事がどれほど大切な事かが明確に書かれています。

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ 6:14-15)

また、マタイ 18:23〜35 には、不思議な箇所があります。自分は主人に赦されたのに、仲間を赦さなかったしもべの話です。

その最後に、この言葉があります。

「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ 18:34-35)

何度も読んだ事のある箇所ですが、この「彼を獄吏に引き渡した。」の箇所はどういう意味でしょうか?おそらく、これは、赦さない事が原因で煩う病気や精神的な苦難です。もちろんこれは、永遠の裁きではありません。

「借金を全部返すまで」の箇所も、不思議です。

人を赦さない時、私達には自分の罪の「借金」が残り、「獄吏に引き渡されて」体の病気や精神不安定などによって、捕われてしまう事もあり得る、という事です。

上記のセラの話は、珍しい話ではありません。何度も、同じような証しを耳にします。私達の多くは、天のお父さんの赦しを経験しているのにも関わらず、人を赦すことで躓いてしまいます。

素晴らしい神様の愛と恵みを見ると、セラがその相手を赦した瞬間、彼女も癒されて、「獄吏」から解放されました。

愛するお父さんは、私達が一秒も早く、牢獄から解放される事を望んでおられます。

2009年1月16日金曜日

いつリーダーとなりますか?

タラントの例え話(マタイ25章14〜30節)を読んで、想像してみて下さい。

1タラントをもらった人は、10タラントをもらった人を見て、自分と比較してしまいました。彼はおそらく、こんなことを考えたでしょう。「あの人は、音楽が出来る、賛美リードも上手、人の前に出て話したり、メッセージをするのも平気。教会の奉仕をするのは当然だ。それに比べて私はどうだろう。そんな事は何もできない。やっぱり、教会に来て、受けるだけで良い。」

キリストにある皆は、全ての人が既にリーダーです。与えるべき人々です。ただ、それを認めて、リードするスキルを磨き、毎日の生活の中で、それをこなして行くかどうかが問題です。子育て中のお母さんは、毎日子供達を御国に仕える者として教えています。未信者の同僚を持つ会社員は、職場で聖霊の導きを信じて、御国の生き方を現しています。イエスの憐れみと愛を持って仕える中で、同級生を励ましている学生達もいることでしょう。

リードする役割や場面はそれぞれ違っています。またキリストにあるリードと言うもの自体が、この世のそれとは全く違っています。しかし一つ言えることは、私達キリストにある者全てに、他に与える事のできる物が、既に沢山与えられているという事です。

次に、御国の原則についてです。
マタイ 7:2 ...あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
マルコ 4:24 ...人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
ルカ 6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。...あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
御国の原則によると、人は自分が与える程度によって、与えられると言う事です。しっかり準備ができて、学びも終わり、立派なリーダーになるまでは、私には何もできませんと言ってしまう事は、根本的にあり得ません!

既に与えられているものを、忠実に取り扱い、他の人に流しだす者だけが、さらに、与えられるのです。自分の成長のために、逆にどんどん踏み出さなければならないという事です。他の人を積極的にリードすることによって、霊的な祝福を沢山もらいます。逆に、準備が出来るまで待つならば、それは「神様から頂く姿勢」ではなく、神から目をそらし、自分の事、自分の才能、能力に目を留めてしまう結果になってしまいます。

私達は皆、既にある意味リーダーなのです。既に多くの人に、神の御国の影響を与えています。そしてそれを可能にするための全ての必要は、神様が備えてくださいます。

人の前に立ち、教えたりする事だけがリーダーの仕事ではありません。イエスはどのようにして、人々を導いたでしょうか?あなたが今日、遣わされたその所でできる「人々に与えていく事」を是非見つけてみてください。

2009年1月8日木曜日

天の御国は、人が地に種を蒔くようなものです。

今日は、「天の御国は、... のようなものです。」という御言葉をいくつか読みたいと思います。

「天の御国は...
  • 人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。(マルコ 4:26-29)
  • からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。(ルカ 13:19)
  • パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。(マタイ 13:33)

「種」とは、何でしょうか?もちろん、御言葉ですが、具体的に言うと、私達の口から出る言葉、態度と行動です。
私達が、語らないと、人々は、御国の種を受けることはできません。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」ローマ 10:14-15


私達は、この「御言葉の種」を出て行く所々に蒔くように、遣わされています。
これは、舞台から、説教するという意味でしょうか?群衆の前に立って、御言葉を一方的に語ることでしょうか?
違います。私達の人生の全てを通して、語る言葉、態度と行動を通して、イエスの香りを積極的に放つことです。
これは絶対押し付けるような行動ではありません。私達のしてきた伝道の中には、聞きたくない人に、福音のメッセージを無理矢理に押し付けるような行動に過ぎません。

「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」コロサイ 4:6
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」エペソ 4:29


私自身もこのところで、よく失敗したことがあります。相手の気持ちを考えずに、一方的に福音を伝えようとしたことがよくあります。
その時は、「徳を養うのに役立つことば」や「塩味のきいたもの」よりも、塩辛くて好ましくないものを相手に与えてしまいました。
私達は、意外に小さいことを通して、恵みの御言葉を蒔く事ができます。

  • 人に悩み事を打ち明けられたり、友人が困難にあっている時、ただ話を聞くだけで終わらせずに、導かれたら、「主は、あなたのことを愛しています。気にかけておられます。何か祈ることはないですか?」と聞いてみましょう。愛が伝わり、神様も彼らのことを愛しておられることが分かります。
  • 自分の生活の一部である、神との交わりの時間で得た事を、自然に分かち合ってみましょう。「今日は、主と素晴らしい賛美と祈りの時を持ちました!新しく進む道を神が示して下さった!」と人にいうと、主は個人的に関係を持たれる方、主を知ることは楽しい事だと伝わります。
  • 常に、感謝、賛美、喜びの態度を持って、そのような事を言葉で表す時、人は、神には喜び、勝利、命、希望があることが分かります。
  • 「昨日、私の言ったことは間違っていたと主に示されました。主に祈ったら、赦して下さいました。しかし、あなたにも、誤って、赦しを求めることが示されました。ごめんなさい。赦して下さいますか?」と人に言うと、主が私達に語られる事、私達を赦して下さり、私達を導いて下さることが分かります。

神様から、聞く人に恵みを与える言葉、発言などに努めましょう。イエスの生き方は、まさにこのようなものでした。

「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」ヨハネ 5:19
「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」ヨハネ 12:49

2008年12月29日月曜日

弟子訓練はいつから始まりますか?

地上にいる間、イエスが弟子たちに言われた最後の命令の一つはこれです。:

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。マタイ 28:20

今日、皆さんに新しい質問をしたいと思います:

「弟子訓練はいつから始まりますか?」

今までの考え方では、人がイエスを自分の主と告白してから、弟子訓練が始まると思って来ました。

ある人は、キリストに従いたいと思い、弟子となる決心をします。そして、聖書を読んだり、御言葉に従うことを学び始めます。
またある人は、長い間聖書を読んでからやっとイエスを信じるようになります。
またある人は、先に聖霊に満たされ、異言で祈る経験をしてから、イエスを信じて弟子となります。

しかし、イエスは御言葉の中で、私達に出て行って弟子を作る事を始めに命じています。その観点から、「弟子訓練」は、クリスチャンの人がクリスチャンでない人と出会う時から始まると言えないでしょうか。

あなたの人生は、彼らにとって、キリストに従う者としての模範となっています。救いを求めているかどうかとは関係なく、人はあなたを見て、クリスチャンは何者であるかと学んでいます。
これは私達クリスチャンが、生き方を通して神の栄光を現すことのできる絶好の機会です。しかしながら、あるクリスチャンの人生は、この世の人の人生とさほど変わりがありません。良い意味でも、悪い意味でも、人はあなたの生き方を通して、キリストに従う者、クリスチャンのイメージが決まってしまいます。

あなたの周りの人々はどうでしょうか?家族、友人、親戚、同僚、同級生など、あなたの周囲の人々はあなたを見る時、何を見ていますか?あなたは毎日出会う人を、彼らがイエスを信じる前から、ある意味弟子とする事ができるのです。

あなたが彼らに犯した間違いの故に、赦しを乞う時、キリストは赦さす方である事を証ししています。
あなたが彼らのために祈るとき、キリストが彼らを愛し、気にかけておられる事を証しすることができます。
あなたが彼らの病いのために祈る時、キリストが癒し主であり、彼らの病いを癒したいと望んでおられる事を証しすることができます。
あなたが彼らの必要に心から仕え、助けを必要とする者に手を貸す時、キリストが彼らにとっても個人的に関わりになりたいと愛を示されている事を証しすることができます。

あなたはそれらの人々と毎日会いますか?週に一回ですか?その頻繁さには関わらず、彼らと出会う度に、私達はキリストに従う者の生き方がどのようなものであるかの見本を示して行く事ができるのです。皆さんも、与えられたそれぞれの場所で、もう既にこのように生きておられると思いますが、時々こういう事を意図的に考えてみる機会になればと思い、分かち合いました。

あなたの光をこの世に照らして下さい!

以下は具体的なアイディアです。当然の事ですが、私達がこの世に踏み出して行く時、最も大切なことは聖霊様の導きを聞いて行く事です。聖霊が示される通りに、皆さんの周りの人々の中に、キリストの生き方を証しして行きましょう。

・無理強いはしないように!でもあなたの中でイエスが全てであると言うのなら、会話の中にも、あなたのイエスに対する信仰は自然に出て来るはずです。
・神が見せて下さっている啓示や、あなたに教えて下さっている事を、普段の生活の中で人々に分かち合いましょう。
・ノンクリスチャンの人であっても、あなたが彼らに対して過ちを犯したり、言うべきでない事を言ってしまったりしたら、すぐに赦しを乞いに行きましょう。神は赦される方です。
・彼らのために祈りましょう。彼らの抱えている問題や悩みのために、可能なら目の前で祈ってあげましょう。神が答えて下さることを期待して祈りましょう。
・聖霊に知識の言葉や啓示、必要な時に与えることのできる言葉を頂きましょう。そしてそれを大胆に分かち合いましょう。
・既成の「クリスチャン概念」のようなものを脱ぎ捨てましょう。シンプルにキリストを生き方を通して現しましょう。人々は「宗教」にはもう、まっぴら懲りています!

2008年12月17日水曜日

すべて、疲れた人よ!

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイ 11:28-30 
・イエスの所に行きます。
宗教ではなく、本にではなく、毎日の習慣ではなく、私達は、イエス、この「もと」に行きます。

・イエスから休息を受けます。
イエスの所には、休息があります。イエスと一緒にいると、たましいが楽になります。安らぎが来ます。
もし、祈ったり、聖書を読んだりすることによって、逆に疲れてしまうなら、おそらく、私達は自分の力で、頑張っています。本当にイエスの所に行ったものには、いのち、また安らぎが与えられるからです。

・イエスのくびきは、負いやすい。イエスの重荷は、軽いです。
ここでも、毎日の生活の中で、皆さんの心に、休む余裕がなければ、イエスのくびきではなく、自分のくびき、他の人からのくびき、社会からのくびき、または、宗教のくびきを背負っているのかもしれません。
イエスのくびきは、イエスからの恵みなので、軽いです。もちろん、恵みがなければ、背負うこともできません。

・イエスから学ぶ事
その軽い重荷の一つは、イエスから学ぶことです。つづけて、イエスからの啓示が必要です。
ローマ12に書いてあるように、私達は、常に、心の一新によって自分を変えていかなければなりません。

ここに書いてあるように、聖書からではなく、「イエスから学ぶ」ことによって休むことができます。もちろん、イエスから、聖書を通して、学ぶことはできますが、パリサイ人のように、聖書を一生懸命勉強しても、イエスのもとに行かなければ、休みは頂けません。

どうやって、イエスから学ぶでしょうか?
初めは、御霊に聞きながら、聖書を読むこと − 聖書を勉強するだけでは、頭の知識に過ぎません。しかし、御霊がその御言葉を通して語って下さったら、それが命となります。このために、聖書をよみながら、また、読んだあと、心を静めて、神の声に耳を傾けることが大切です。
また、それだけではなく、学んだことを実行しなければなりません。従うこと − 今日、教えられたことに従わなければ、明日、新しい啓示は来ません。

「イエスからの学び方」
一つの簡単な、「イエスからの学び方」を分かち合います。
ノートを使って、3段に分けます。

1. 御言葉を書き写してください。(普通は、2〜5節で十分。もっと長い箇所を読んでもいいですが、一番心に残った2〜5節を書いて下さい。)
2. 読んだ箇所の解釈やキーポイントを書いて下さい。
3. 従うための決断、または、新しい啓示を書いてください。
4. 学んだことを実際に実行してください。
5. 誰かに、学んだことを分かち合って下さい。

この同じやり方をぜひ家族や小グループでやってみて下さい。

だれでも、聖書を勉強することはできますが、御霊が一緒にいなければ、主の御声に従うことはできません。ですので、4〜5番を実行することは、1〜3番と同じ位大切です。

主イエスのもとにいて、主から学んで、その豊かな命を頂いて、この傷ついた世界に分かち合いましょう!

2008年12月10日水曜日

「どんなに 小さなことでも」

「何か、お祈りできる事ありますか?あなたの人生の中に神様の助けが欲しいと思う事ありますか?」と預言カフェでの預言の後に聞いてみる事があります。

沢山の人に今まで聞いてみたのですが、多分ほんの一握りの人だけが「大丈夫です」といわれます。
ほとんどの人が「家族の問題」、「経済」、「仕事」、「人間関係」、「健康」などに不安があり、その事を話してくれます。
私にとって「困っている事を話して、祈ってもらう事は当たり前」ですけど、これは、実は特権だという事に気がつきました。
イエス様を知らない時や正直な関係ができていない時には、自分だけでがんばっていますが、それは大変です。

「心が軽くなりました」「すっきりしました」といって 励まされて帰っていかれます。

祈らせてもらって、その解決があり、教会の礼拝に繋がる人もいます。
その場で、体の癒し(股間接の痛みが癒された)があり、会計した後に、戻ってきて癒しの報告をされた人もいます。
「私の目には あなたは 高価で 尊い」
ので、どんな事でも、神様のめには、小さい事はないのです。
人の話を聞くことや、そのために祈る事は、今時代、「愛が冷たい」時代で、大きな働きだと感じます。


相馬 伸子

2008年12月2日火曜日

世界の人が直面する問題の全ての解決

この世界の人が直面する問題の全ての解決は、あなたにあることをご存知ですか?
体の病気であっても、罪の問題であっても、こころの束縛であっても、人間関係、または経済的な問題であっても、聖霊にあって、その解決はあなたのうちにあります。
あなたは、この病んでいる世界に、神の救い、癒し、解放、和解をもたらす器として選ばれました。

神はこの方、イエスに聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。使徒の働き 10:38

イエスの所に来て、癒しや解放を求めた人は、皆その癒しや解放を手に入れました。イエスは、一人も、断りませんでした。

そして、イエスと同じ様な働きをするように、私達を任命されました。
病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ 10:8 

わたしたちは、癒されて、解放されて、救われました。だからこそ、今度は私達が出ていって、救い、癒しと解放を周りの人々へ、流し出していくのです。

今週のチャレンジです!
周りの人々、家族の人、会社のひと、学校のひと、近所の人:その人に超自然的に仕える道を探して下さい。
主から、そのチャンスが与えられるように、祈って下さい。
今のクリスマスシーズン、多くのノンクリスチャンは、教会のイベントにきます。
その時、御霊の賜物をとおして仕える機会を探して下さい。
つまり病気のための癒しを祈る事、または預言的に励ましの言葉をかけることかもしれません。経済的な問題のために、奇跡を求める事かもしれませんい。
私達の福音は、こどばだけではなく、力だからです。

具体的なポイントですが、できるだけ自然に、その場で、その人のために祈ってあげてください。
そして、神様のすばらしい解決があたえられることを期待してください。

何よりも、わたしたちは、神の素晴らしい愛を、その人に表わしていきましょう。

最後に、一つの証しを分かち合います。
夏の間に、大阪のあるモスバーガーの店長さんの奥さんが、私の友達の教会の英会話のクラスにきました。
その奥さんは、今の不景気と、店の売上のことで悩んでいることを英会話の先生に分かち合いました。
その先生は、その場で、彼女のために祈りました。そして、次の日から、店の売上が突然良くなりました。
そのことによって、奥さんは、教会の小グループに来て、御言葉のメッセージを聞き、救われました。
一週間後、また、娘さんも救われました。

この英語の先生は、御霊にあって、自分の中には、人の問題のための解決があると信じたことから一歩踏み出した時に、全てが始まりました。

皆さんも、主にある大胆さを持って、素晴らしいことを期待して、踏み出してみて下さい。
また、onfire japan に、その証しを教えて下さい。

ジェフ

2008年11月25日火曜日

20年間の腰の痛みが癒された

先週日曜日の証しです。

近所の教会での小グループの集まりで話をしてきました。

真の武士道について触れながら、私達は天の御国の「王」として、それぞれの人生の中で、神の「王国」を広げる事ができると話しました。

私達はみな、友達、親戚、隣人、同僚などの間に、神の王国、天の御国を広げる特権が与えられています。

それは、具体的にはどういう意味でしょうか?

イエスを見ると、その答えが分かります。バプテスマのヨハネの弟子たちに言われたことを覚えていますか?

「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。ルカ 7:22

これは、天の御国の地上での現れです。私達がこの地でなしていくよう、任されている業です。

話を分かち合った後、グループの一人が、実際にはどうやって人のために祈れば良いのかと、質問しました。私が簡単に説明しました。もちろん、御霊の導きによって祈りますが、原則は:
  • 出来るだけ、自然に祈る。宗教的な言葉などを避ける。
  • 祈る許可を頂く:「今、あなたのために祈っても良いですか?」
  • 相手が受け入れるなら、痛い部位、病気の箇所に手を置く(許可を得てから)
  • 目を開けたまま、短く祈る。イエスのように、簡単な命令がいいです。(例:痛みよ、出て行け!(痛んだ箇所に向かって)元に戻りなさい。完全な状態に戻りなさい。)
  • 祈った後、何か変わった事がないか試してもらう。痛みのあった所を動かしたり、今まではできなかった事をやってもらい、癒されたかどうかを確認してもらう。
  • 部分的に、またはある程度癒されたようなら、感謝し、完全に癒しを受け取るまで続けて祈っても良いです。
このような事を説明しながら、質問をした男性のために、祈るふりをして説明したところ、なんと彼自身が、実は腰痛を抱えており、20年間悩まされて来たその痛みから癒されました!

主は、素晴らしい!

主の恵みがこれらの奇跡を可能にします。私達はただその恵みの器となれば良いのです。

どうぞ、みなさん、痛みを煩って苦しんでいる、また、病に倒れている人々へ、神の御国を届けて下さい。

皆さんの癒しの証しも、是非聞かせて下さい!

健康食品




"You Are What You Eat" は英語のことわざですが、「私達は自分の食べた物のようになる」と言う意味です。普通は肉体的なの健康について言いますが、私達の霊的な状態に も言えると思います。ジャンクフードばかりを食べていると健康を損ねてしまうように、「霊的なジャンクフード」を食べ続けると、霊的な健康を壊してしまい ます。それでは、霊的な健康食品とはどのようなものでしょうか。私達の霊を支える霊的な食物は何でしょうか?もちろん聖書の御言葉がその一つです。そして その中でも特に素晴らしい健康食品と言えるものが、御言葉にある主の約束です。
毎日のように、主の約束の御言葉に目を留めたり、思いを巡らせたり、歌い、宣言し、祈ったりすると、自分の霊を強めて行きます。
二つ目の健康食品は、神の御業に関する話しや証しです。神様がその御力によって地を侵入した話しを聞くと、主がもう一度同じことをして下さるという信仰が 与えられます。
も う一つの健康食品は、主の御心を行う事です。イエスご自身もこのように言われました。「私の食物は父の御心を果たすことです。」私達が神様の御心を果た し、福音を伝え、病気の人を癒し、捕われた人を解放し、私達を通して天がこの地に侵入する時、それが私達の霊を満腹にさせる食物になります。
Onfire Japanの目的は、霊的な健康食品を提供する事です。ここにあるメッセージ、証しなどを聞くと神様があなたを通しても働かれ、御国をもたらすのだという 信仰が生じる事でしょう。

イエスに従うって難しいことではなく、無理です!

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
ヨハネ14:12-13

イエスの命令について真面目に考えた事はある?イエスがこういうことおっしゃってます。:「福音を伝えなさい」、「貧しい人を養いなさい。」それは可能だね。
でも、「敵を愛しなさい。」、「全ての人を、どんなことでも許しなさい。」ウーン、、、この辺になるともうちょっと難しいね。神様の助けがなければ無理かもね。
じゃあ、これはどうですか?「病人を癒して、死んだ人をよみがえらせ、ライ病の人を清めて、悪霊を追い出しなさい。」このような命令はいったいどうやってできるんだろう?サッパリ無理な話しだね。

もちろん、自分の力でこれらの命令の全てに従っていくのは到底無理な話し。でも、天のお父さんが送って下さった御霊によって、私達はみんなこの命令に従うよう整えられ、実際に行っていく事が可能なんだ!

イエスは私達にとっても簡単な生き方を見せて下さった。
1.  イエスは神様の人間に対しての御心の本質を悟っておられたんだ。天のお父さんが全ての人を許し、救い、癒し、聖め、自由にして下さることを全く疑わずに信じていた。イエスはこの事で迷ったりしなかったんだね。だから、病気の人や束縛にある人、また罪人を見た時に、神様がその人を癒し、救いたいんだって事を信じて疑わなかった。
2.  それからイエスは天のお父さんから目を離さずに、父がなさることを見てそれをしたんだ。言い換えればイエスはいつも天のお父さんと絶えることの無い関係を結んでいたので、次に何をすれば良いか、また何を語れば良いかは、お父さんが啓示を通していつもイエスに教えて下さっていたんだ。

地上におけるキリストの大使として、私達もイエスと同じように生き、同じ事をしていく特権が与えられている。そればかりかイエスご自身よりも偉大な業を私達がやっていくと言われ、そのために聖霊様を送って下さると約束してくれたんだ。

神様に完全に委ねたシンプルな生き方、今神様はそんなライフスタイルを歩む世代を立ち上げて下さっている。彼らを通して神の霊がこの壊れかけた世界に触れていくんだ。世界の各地から寄せられている何千もの証しは、ただ普通の人達が神の素晴らしい臨在と力に満たされて、病人を癒し、盲人の目を開き、死人まで甦らせている... そうして町が、また地域が、そして国々が変革されてきているんだ。

君もキリストに従う者なら、信じる者なら、クリスチャン(小さなキリストという意味)なら、そして聖霊に満たされているなら、これらの事を、いやもっと素晴らしいことをやっていく備えはもうなされている!

神の子よ、今立ち上がろう!君を通して聖霊様が働き、君の学校で、職場で、また友達やクラブ仲間、家族の中に、御国を来させよう。

病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
マタイ10:8

私達の人生を通して、神様にそのように働いて頂くためには、私達が悔い改め(思いを変えて頂く)、神の目からものを見ていく事が重要です。そのために、私達はイエスと神の約束に目をとめ、私達のようなごく普通の信じる者を通して神が不可能の中に侵入され御国をもたらされた証しを聞いていくべきです。

 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。と言いなさい。
ルカ10:9

Onfire Japan の働きは、あなたの目をイエスにとどめておくため、また神が君の人生に持っておられる計画のうちに立ち上がるための助けとなります。 Onfire Japanはダウンロード可能なMP3ファイルやビデオ、証しのビデオ、書籍などをオンラインでお届けする、皆さんのためのサイトです。私達の思いは、全ての信じる者が神の火によって燃やされ、それぞれ置かれている場所で神の御国をもたらすのを見ていく事です。

是非ホームページをチェックして、メッセージなどをダウンロードしてみて下さい。神様に対して、また神の御国に対して飢え渇きを覚える人達のために様々なイベントやキャンプも開催しています。また必要なら出向いていって、あらゆる所でリバイバルの種まきの働きをしています。皆さんの教会や集まりでも、ミニストリーの機会があれば是非連絡してきて下さい。出向いて行きますよ!

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
ローマ8:32
何よりも皆さんに信仰の一歩を歩み出してもらいたい!天の父がされていることを見て、それをやってみて下さい。それは病気の方のために手を置いて祈る事かもしれません。落ち込んでいる人に励ましの言葉(預言)をかけてあげる事かもしれません。もしかしたら、束縛されている人に、簡単な罪の赦しの祈りを導いてあげる事かも知れません。

神様は経験豊富で有能な、賜物のある人を探しておられるのではありません。ただ「私がここにいます!用いて下さい!!」という心を探しておられるのです。

2008年3月6日木曜日

ミクシィのオンファイヤー!

ミクシィを使っていますか?オンファイヤージャパンはいくつかのミクシィのコミュニティがあります。
一つは、「王家の者として生きる」の読者のコメント、リンクはここです: http://mixi.jp/view_community.pl?id=3084574
また、「天が地に侵入するとき」の読者のコミュニティはここです: http://mixi.jp/view_community.pl?id=3118607
ミクシィの事を分からない人のために、ここをご覧下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/Mixi
念のため、ミクシィのメンバーになるためには、紹介が必要です。もし、紹介が必要ならば、オンファイヤージャパンのHPを通してご連絡下さい。