「耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:9
Wade Taylor Ministries
2012年1月30日
日本語の翻訳は:http://www.banministries.org/
「耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:9
純粋なワーシップの価値 - ウエイド・テイラー
真のワーシップは、聖霊によって生まれ聖霊によって導かれます。 今まで一度も一緒に集まったことのないクリスチャンたちが、美しいハーモニーでワーシップし、人々を天の礼拝者たちのもとへといざなう時、それを見た人は 彼らはもう何年も一緒に集会をしているのだろうと思うかもしれません。
このようなワーシップの流れを生み出すのは、習得した能力の結果ではなく、彼らが主の臨在を尊び、主の臨在に応答しているからであり、 人々の霊を高揚させる聖霊の力が働く結果です。
純粋なワーシップは、人々を一つにし、その一致の故に 美しいハーモニーと豊かな表現で人々を高揚させる力を聖霊は人々に分け与えるのです。その時、天が開いて主の臨在が会衆の上に注がれます。またワーシップ は、 それが必要とされる時と場合に応じて、 この世の主権や悪霊が働くのを阻んで人々が霊的に解放されるのを助けます。
私たちのワーシップは、クリスチャンの集会に啓示の御霊をもたらします。 ワーシップする者たちの上に油注ぎや聖霊の高揚させる力を解き放ちます。主の臨在に応答するとき、私たちは更に清くされ、更に御霊のそそぎを経験し、預言的啓示を受け取ります。
歌うワーシップにおいて、美しいハーモニーで全員が歌の流れを生み出す能力は、実は私たちが救いを体験した時に 主への礼拝(ワーシップ)を表現する預言的能力を受け取ったという事と関係があるのです。この「ワーシップの霊」は私たち一人ひとりの奥深くにあって、表 現する機会を待っているのです。私たちが主をワーシップし始めるのに必要なものは、それにふさわしい霊的空気といくらかの励ましだけです。
「ワーシップ」とは、 純粋な主への敬慕の表現であり、主の臨在の中に留まりたいという私たちの願いをますます強くします。ワーシップは私たちが主の臨在に対して敏感になり、主 の御声を察知できるようになる鍵です。 主へのワーシップを忠実に表していくならば、私たちはどんどんと 内住の主の臨在に敏感になり、主の御声をもっと容易く聞き分けられるようになります。声に出してするワーシップは私たちの中にある霊性を成長させるために 大変役に立ちます。
「プレイズ 賛美」は主がしてくださったことに対する感謝の表現です。礼拝で用いられるドラムは私たちの魂をかき立てるので会衆は興奮して大声を出 します。しかし、私たちがワーシップの状態になり静かになった時には、聖霊ご自身がワーシッパー(礼拝する者)を通してワーシップされるのです。そして美 しいハーモニーのワーシップの表現が、 もっと高い主の臨在の霊的領域へと会衆を高めていきます。これはドラムのビートがあっては不可能なことです。
この「ビート」は私たちを「プレイズ」に引き降ろしてしまいますが、一方、純粋なワーシップは 天の聖歌隊の永遠のワーシップとの合体へと私たちを高めます。サタンはこのことを知っていますが、残念ながらワーシップリーダーで知っている人はほとんどいません。
キリストのからだの中には、 様々なレベルの沢山のワーシップの表現があります。 初めてフル・ゴスペルの集会に行ったとき、私は大きな音のプレイズが気になってそこを出たいという思いにかられました。私は「祝福ある静けさ」はよく分 かっていたのですが、会衆全員が 解放されて大声で歌いワーシップしているのを聞くのは初めてだったのです。しかし今は、その時主が私をコントロールしてその場に留まるようにしてくださっ たことを永遠に感謝しています。そして時間はかかりましたが、私もそのように同じ霊的自由と表現をもってワーシップすることができるようになりました。
モーセも主の臨在を知り尊んでいました。
すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」それでモーセは申し上げた。「もしあなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」出エジプト33:14-15
モーセは主の臨在が自分と共にあることを激しく求め ましたが、それはただその時にたまたま起こった感情ではありませんでした。彼の回りに起こる様々な状況や出来事が、主の臨在を熱心に求めさせたのです。
モーセは「エジプト人のあらゆる学問を教えこまれ、ことばにもわざにもちからがありました。」(使徒7:22)しかし、彼はエジプトであやまちを犯 し、荒野に逃げました。 そこで義父イテロの羊を飼っているとき、神の山に向かっていくことによって自分の人生への神の召しを追い求めたのでした。彼は遠く道をはずれたところに燃 えているのに燃え尽きない柴に気づきました。
すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は燃え尽きなかった。出エジプト3:2
モーセは燃える柴に気がつくと直ぐに「あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(3節)」と言いました。彼は主からの招きに素早く応答したのです。これはモーセの内に主の臨在への願望があったこと、そして主の臨在に対する応答があったことを示しています。
モーセは主の山にむかって歩いてはいましたが、主が現れた柴はモーセが歩いていた道から遠く道をはずれていた(distance to the side)ことに目を留めてください。これは主が人々からご自分を求められたいと願っておられるからです。主は私たちが主の臨在を願い求めることを示す応 答を求めておられるのです。主は、私たちの側から主の臨在を真に求めていることはっきり意思表示をする行動を取るときに、 ご自分を顕してくださることを選ばれるのです。
このような主の臨在に対する「霊の態度」は、簡単に持てるものではありません。それは懸命に養い求めていかねばなりません。ワーシップはこの霊的敏感さと主の臨在に対する態度を発達させる鍵なのです。
「モーセは言った。『何故柴が燃えていないのか。あちらへ行って(I will now turn aside)この大いなる光景を見ることにしよう。』主は彼が横切って(turned aside)見に来るのを御覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります.』と答えた。(出エジ プト3:3、4))モーセは神に関するもの(神の山)にむかって進もうとしていましたが、 主の臨在を心から求めていたので、この超自然的な現象に進んで応答したのです。 その時は何が起こっているのかを理解してはいませんでしたが、彼は主の御声に従順に従ったのです。
私たちは皆、私たちを取り巻くこの世の環境に左右されます。その結果、地上の事柄に関しての敏感さを、程度の差はありますがそれぞれが持つようにな ります。そして、私たちが「ボーン・アゲイン」した時、永遠の事柄を知り、それに応答する力を受け取ります。 自分が 「新しく造られた者」となったこと、新しい人生のもっと高度な霊的領域に入ったことを、内なる聖霊よって理解するのです。
主 はこの世のものを立て上げるだけではなく、私たちを霊的なものへと手引きしたいと思っておられます。このことを深く理解するならば、私たちは価値の低いも のの「道からそれて」、 主の御声と臨在にますます敏感になり、永遠のものに目を向けそれに集中するようになるのです。
現在のアメリカの霊的状態は低いので、私たちのワーシップの質を高めることは急を要しています。集会の中に主の臨在が増し加わるとき、霊的に飢え渇 いている人たちが主の臨在の顕れに引き寄せられて、私たちと共に主をワーシップするために「道からそれて」来ることでしょう。主の臨在は真に霊的に餓え渇 いている者を引き寄せるのです。
聖書学校時代に、私は先生の一人であったウオルター・ビュートラー師から非常に重要な霊的法則を学びました。それはとてもシンプルでありながら、と ても奥深いものでした。先生は「主はご自分の存在を心から喜び感謝するもの(appreciate)を心から喜び感謝される」といわれました。これは別に 特別のことには見えないかもしれませんが、主が大切にされている御思いを表しています。 私たちは皆、人から喜ばれ感謝されたいと思っていますが、主もご自分が喜ばれ感謝されることをユニークに喜ばれ感謝されるのです。主は主を喜び感謝する者 にご自分の臨在を与えられるのです。そして ワーシップを通してそれを表す者に対しては特にそうされるのです。
これが意味するところは、主が私たちの集会で何か特別に働かれたり、主の臨在で私たちを祝福してくださる時には、私たちは主の臨在を喜び楽しんだ後 で、 「主よ、あなたはここにおられます。私たちはあなたがここにおられることを知っていること、そしてそれが本当にうれしいことをあなたに知っていただきたい のです。」と十分にお伝えせねばならないということです。
私たちの音楽やワーシップ、私たちが集会でするすべてのことは、主の明らかな臨在という次元に入ることを目的としているべきです。私たちは主の臨在 に対する敏感さを養うべきであり、それによって主の臨在を認識することができるようになり、いつ「道からそれて」純粋なワーシップの声を高く上げればよい かを感知することができるのです。
モーセが燃える柴の中の主の臨在に応答して「道からそれた」とき、主は彼に語られ、主の民を奴隷から解放するための導きを与えられました。そしてモーセが民を乳と蜜の流れる土地へと導ける力を与えられたのです。
私たちのワーシップの価値は、私たちが考えるよりずっと大きいのです。私たちがワーシップするとき主が介入してくださり、私たちのために働いてくだ さるのです。そして主は天のワーシップを導く天の聖歌隊を大勢持っておられるにも拘わらず、私たちのプレイズとワーシップに応答し、その中に住んでくださ るのです。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」ヨハネ4:23
(終わり)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
詩篇23:1-3
…床の上で自分の心に語り、静まれ。 セラ
詩篇4:4
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
詩篇37:7
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
マタイ11:28-30
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
ヘブル4:9-11
静まって、わたしこそ神であることを知れ。
詩篇46:10
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ40:29-31
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
詩篇27:14
ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
イザヤ55:1-3
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
ルカ10:39
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 (ルカ十七・二十)。イエスが強調されたのは、リバイバルは人の心や人生の中に、まず初めに訪れると言う点です。
「イエスのあかしは預言の霊です。」(黙示録十九・十)
マタイ 7:2 ...あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。御国の原則によると、人は自分が与える程度によって、与えられると言う事です。しっかり準備ができて、学びも終わり、立派なリーダーになるまでは、私には何もできませんと言ってしまう事は、根本的にあり得ません!
マルコ 4:24 ...人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
ルカ 6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。...あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」ローマ 10:14-15
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」コロサイ 4:6
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」エペソ 4:29
「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」ヨハネ 5:19
「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」ヨハネ 12:49
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイ 11:28-30・イエスの所に行きます。
「私の目には あなたは 高価で 尊い」
神はこの方、イエスに聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。使徒の働き 10:38
病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ 10:8
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。ヨハネ14:12-13
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ10:8
そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。と言いなさい。ルカ10:9
何よりも皆さんに信仰の一歩を歩み出してもらいたい!天の父がされていることを見て、それをやってみて下さい。それは病気の方のために手を置いて祈る事かもしれません。落ち込んでいる人に励ましの言葉(預言)をかけてあげる事かもしれません。もしかしたら、束縛されている人に、簡単な罪の赦しの祈りを導いてあげる事かも知れません。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。ローマ8:32