2012年9月11日火曜日

主の臨在を尊ぶ − ビル・ジョンソン

私たちは「御国を来らせたまえ」と祈りますが、天国の一番の特徴は「神がそこにおられる」ということです。神は光であり、神が臨在される天国には影はありません。そしてすべてのことは神を中心とし、神が喜ばれるように行われます。すべてのことは神により、神のために、神ゆえに起こるのです。もし私たちが「御国と同じことが地でも起こるように」と祈るのならば、この地でも神の臨在こそを宝として尊ぶべきです。

もし、教会がこの真理を中心にして機能するとしたらどうでしょうか。残念ながら、この数百年、もしかしたら1800年間くらいかもしれませんが、教会は毎週「説教」を中心として集まってきました。けれどもイスラエルは「主の臨在」の周りに宿営していたのです。もし神が私たちの教会のやり方を劇的に変えようとしておられるとしたらどうでしょうか。即ち、「一人のお方」を尊ぶというやり方に変えるのです。

神学的に「2人、また3人が主の名において集まるところには、主もいる」と宣言することは出来ます。又、確かに主は私やあなたの中におられます。しかし、主のマニフェステイション(臨在の顕れ)というものがあり、それを私たちはお迎えすることが可能なのです。それは自動的に起こることではありませんが、実現可能なことです。私たちは主の臨在をお迎えしてそれを尊び、敬い、祝うことができます。その時、私たちは聖霊のパートナーとなり、聖霊がしておられることを私たちもすることができるのです。

主イエスは御父がしておられることを見たことだけをなさいました。御父が言われることだけを言われました。イエスに臨まれた聖霊によってそのような霊的領域がイエスには開かれていたのです。

私たちはアジェンダを持っていますし、それは良いことです。それらは御国の法則を私たちが取り入れているものです。例えば「人々をキリストに導く」というアジェンダを考えてみましょう。これは意味のある正当なアジェンダです。その法則を用いて私たちは集会で人々を導くことができます。しかし、もし私たちが「主の臨在」から機能することを尊ぶならば、「法則」から機能するより優れたものとなります。もし「主の臨在」から機能することをあなたが学ぶならば、魂の収穫はもっと著しいものとなります。

癒しを例にとってみましょう。私は「癒しのために皆で祈りましょう」と会衆を導くこともでき、その時癒しも起ります。しかし癒しの力がその場に強く臨み、会衆全体を覆うことがあります。主の癒しの力が臨んで癒されるのです。そのような臨在による癒しは爆発的なものとなります。

主は一人ひとりにユニークな賜物をくださっていてそれにスポットライトを当ててくださいます。あなたと私は違う賜物を持っています。そして私たちに与えられている「賜物の法則」から機能する方が、「主の臨在」から機能する(ことを学ぶ)よりもやりやすいかもわかりません。
しかし、法則から機能すると、私たちはもっと労せねばなりませんが、臨在から機能する時、その結果としての実は途方もなく大きいのです。この違いを学ぶことは大きな意味があります。

主の臨在への敏感さを、ミニストリーのための必要性だけから会得することは出来ません。それでは「professional intimacy 職業上の親密さ」とでも言うべきものになってしまいます。むしろ何もミニストリーの必要性がないとき、アジェンダがないときにこそ、真に主の御声を聞き、主の臨在を尊び感知することをあなたは学ぶべきです。
もしあなたがミニストリーの中でだけ主の臨在を知るならば、それは非常に限られたものとなります。神の御声を聞くことに関してさえ、あなたはprofessional 職業的なアプローチしか出来なくなってしまいます。
「主よ、次は何をしたらいいでしょうか?」「主よ、何を祈ればいいでしょうか?」「主よ、どう預言したらいいでしょうか?」と言う具合にです。
これらは勿論、正しい質問であり正当で必要なことですが、すべてミニストリーのために御声を求めるということです。けれども神との真の親密さとしてはどうでしょうか。神の御声を求めるのは、私たちが何かミニストリーをする時だけであってよいのでしょうか。


「業、働き」をすると称賛を受け、うれしい気持ちになります。自分の働きが役に立ったという喜びを感じます。これは悪いことではありません。しかし、あなたが主の臨在から機能する時は全く違うのです。
ある時、私は1500名ほどの癒しの集会のメインスピーカーとして招かれました。集会の最後の私のメッセージがかなり長くなり、人々が癒しの祈りをはやく始めて欲しいという気持ちを持っていることを強く感じました。
私はワーシップを一回だけ短くするように導かれました。するとワーシップの霊が私に臨み、私は歌うこと止められなくなりました。心の中では早く止めて癒しの必要な人のために祈らねばならないと思うのですが、ワーシップを続けることが御心であることがはっきり分かりました。ある時点で私は「癒しの祈りは今日はしない」と心に決めました。
主催者側から祈りに入るようにというプレッシャーはかかりませんでした。しかし私は「講師として期待されていることをせねばならない、責任を果たしたい」とう思いがあったのですが、それを断ち切ったのです。更にワーシップを続けて3、4分たったとき、主が突然私にあることを思い出させてくださいました。それはその日私が集会所に入ったときに主が語られた「deafness 耳が不自由なこと」という言葉でした。その瞬間、主がワーシップを止めなさいと言われていることがわかり、私は会衆にむかって「聴覚に不自由を覚えている人は手を挙げてください。」と言いました。すると82人の人が手を挙げたのです! 主の臨在が部屋の中を覆いました。そして聴覚の神経が癒される等、著しい大いなる聴覚の癒しが起りました。もし私が法則から癒しを行ったならば、もっと時間を要したでしょう。主の臨在を尊ぶことはこのようにパワフルなことであると思います。


人を尊ぶ

私たちの教会で起こっていることをお話します。
第一ヨハネ4:20に「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これはナチュラルな肉の世界で実行出来ていないことを、目に見えない霊の世界で実行していると言うことはできないことを言っています。もし私たちが「神の臨在こそ一番尊く価値がある」と言うのであれば、私たちの個人的な生活、人間関係、団体生活において どのように人々を価値あるものとして取り扱うかが大変重要な問題となります。人に接するとき、私たちは「その人がキリストにあってどのような人か」を常に土台として接せねばなりません。

次の2つの理由から地上のすべての人を私たちは尊ぶべきです。

1.すべての人は神に似せて、神のかたちに創られている。
2.すべての人は神から賜物をいただいている。たとえ神を敬わない人であっても 美しい歌をつくることができるのは何故でしょうか。 以前私は彼らはサタンからタレントをもらっているのだと考えていましたが、そうではないのです。彼らも神に似せて創られているのであり、神が賜物を与えたのです。たとえ彼らが神を否定し、或いは冒涜したとしても、賜物は神からのものです。

イエスがナザレで奇跡を行えなかったのは、人々がイエスを預言者として尊ばなかったからです。彼らは神の霊がイエスに下っているのを認めることができませんでした。もし私があなたを人間的なレベルで尊ぶならば、それはよい真っ当なことです。あなたを尊ぶことを通して私は神を尊んでいるのです。
しかし聖霊があなたの上に臨んでおられる時、聖霊があなたの中で働いておられるのを見る時、又あなたの上に超自然的な神の恵みが臨んでいる時、もし私があなたを尊ばないならば、私は神を尊ぶチャンスを逃したことになります。

完璧主義(perfectionism)は「宗教」であり、優秀さ(excellence)は「御国」なのです。「宗教」の中では、私たちは人が完全であることを要求するのです。「人を尊ぶ生き方」では、ある人が「〜ではない、〜が完全にできない」ということに目を留めるのではなく、その人をその人としてあるがままに喜び祝うのです。
自分の子供のことを考えれば分かると思いますが、音楽の才能がある子に「お前は数学ができない」と言って叱る親はいないと思います。私たちは神が一人ひとりに下さっている賜物を喜ぶのです。

キリストのからだの中においても、神の霊が人の上にとどまって恵みを与えておられることを知り、そのようにお互いを取り扱うならば、多くの傷は癒されるでしょう。ある人は神の御声を聞くことができるけれど教会運営は下手だということがあります。その時は運営の賜物のある人が手伝えばいいのです。

教会がこの真理をつかめば大きな変革が起ります。主はまずご自分の家から変革されねばならないのです。そうすれば私たちは変革する力をもって社会に出ていくことができます。これによって私たちの住む街が変っていきます。政治、教育、ビジネルの分野ではこのことがすでに起こっています。
即ち社会の人々を喜び祝う(セレブレイトする)のです。勿論、人々がキリストのもとに来ることはどうでもよいということではありません。しかし、ビジネス界の人たちが大きなリスクをとりながら成功し社会に貢献しているのですから、その人は尊ばれるべきなのです。今まで教会はその人が救われて教会の会員にならなければ興味がないような態度をとってきました。

大きな犯罪を犯した人が私たちの教会で救われました。裁判官は彼が悔い改めて全く別人にようになったことを認め、本当ならば20年の刑に処せられてもおかしくないところを6ヶ月に減刑してくれました。私はその裁判官に感謝の手紙を書きました。又、古くなったアパートを建て替えて人々が住めるようにしたビジネスマンにも私は感謝の手紙を書きました。教会がこのような人々を尊ぶことは希有でした。先の裁判官も誰かから感謝の手紙をもらったことは初めてだったと言っていました。

私たちの街で「人々を尊ぶ」ことが始まり、例えばレストランでも私たちは励ましの言葉を語ります。よいサービスを受けたときにはウエイトレスや店主に賛辞を送り、チップも沢山します。時には食事代よりも多いチップをあげることもあります。そして私たちの街によいレストランを下さっている神に感謝します。私たちはいつも人々を喜び祝うチャンスを探しているのです。これによって人々の考え方が変革されてきています。

私の妻が買い物をしてレジに行ったとき、レジの人が妻のハンドバッグがすてきだと言いました。そこで妻はハンドバッグの中身を全部だして、バッグをその人にあげたのです。これは「気前がいい、generous」という以上にその人を尊ぶ、honor」ということなのですが、確かに 気前がよくなければ人を尊ぶことはできません。

祈り:主よ、すべての場所において人を尊ぶ姿勢を広める人となりますように。あらゆる状況の中でも主の恵みを持ち運ぶことができますように。天に住む者のように行動し生きることができる恵みをお与えください。あなたの臨在から生きる者として、人々を価値ある者として尊ぶことができますように。
主のレーマの言葉を語り、人々の心を主にひきつけることができますように。
クリスチャンに反目していた人々が作っていた壁も「人を尊ぶ生き方」が浸透していったとき、溶けてゆきました。そして街にいのちが吹き込まれました。「人を尊ぶ生き方」がどんどん伝染して広まりますように。
キリストのからだがそのマントル、油注ぎを受け取ることができますように。「 まず福音を語らねばならない」という宗教的プレッシャーをかけることなしに、人々を喜び祝うことが出来ますように。
教育、政治、ビジネスの分野にこの変革の力が解き放たれますように。(終リ)


2012-9-2
http://www.banministries.org/?p=1931
2012-9-10
http://www.banministries.org/?p=1933