2014年3月11日火曜日

神の祝福を喜び祝う – ビル・ジョンソン

神の祝福の受け取り方
聖書には「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」と あります。教会はこの言葉が大好きで、人が主の御前でへりくだるときに喜びます。しかしその人が高くあげられた時はそれほどには喜ばないのです。聖書は 「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言います。私たちは人が神の国と義を求める ときには喜びます。しかしその人にすべてのものが与えられると、どう対応すればよいか分からないのです 。イエスは「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば隠れた所 で見ておられる父が、あなたに(人々の前で)報いてくださいます。」と言われました。 私たちは犠牲的な施しを極めて高く評価します。しかし、主がその人を公に報いるとき、私たちはどのように反応してよいか分からないのです。

神よりも人を愛すことが起こりえるでしょうか? そうです、イエスはそのような人はわたしにふさわしくないと言われましたね。では人々を愛すること なしに神を愛することは可能でしょうか? できませんね。これはとても不思議なことです。私たちが神を第一とするとき、他のものは一切無価値となります。 しかしその時神は「最も小さいものにすることはわたしにすることだ」と言われるのです。ですから、人々を充分に愛することなしに、神を充分に愛することは できません。

では私たちは神よりも財産を愛することがあるでしょうか?ありますね。では財産をうまく管理しこの世のために巧く運用することなしに、神を愛するこ とができるでしょうか? 私はそうは思いません。キリストのからだの中に、神が自分によくしてくださったときに、何かそれに対して謝らねばならない、恥ず かしいと思わせるようなプレッシャー、雰囲気があります。私は経済的なことだけを言っているわけではありませんが、それも含みます。魂の繁栄はすべての面 に反映するからです。私たちはこの世に対して2つのことを示し与える責務があります。それはまず神との出会いであり、次に祝福された人生です。ある人が神 に良くしてもらった時、それを隠さねばならないとか、そのことを謝るのを見るのは、私にはとても辛いことです。誰かが新しい車を与えられた時、どのように してその車を神が与えてくださったかを詳しく説明するのをよく聞きます。あたかもまわりの私たちが「彼はそのような車を持つに値しない」と 思っているかのようにです。 ある人が隠れた所でなした良い業に対して神が人々の前で報いた場合、往々にして私たちはその人の「隠れた所での良い業」を知らないのです。

地の塩、世に光の役目とは

イエスは「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら何の役にも立たず、  人に踏みつけられるだけです。」と言われました。私は今まで「塩は保存剤、防腐剤である」と教えてきました。肉は塩づけにすることによって長期間保存でき ます。私たちの内にある御国の文化をこの世の中で腐らせないようにするのが塩です。私はその真理を信じています。しかし、イエスが「あなたがたは地の塩で ある」と言われたのは、そういう意味ではないのです。それはこの世の上に私たちがふりかけられるということだと思います。つまり、この世にあるものをもっ と味よくしてその旨味を増すということです。私たちのまわりにあるすべてのものに、よい味、よい風味をつけるのです。経済システム、教育システム、政治シ ステム等すべての分野において、神を知っている人たち、神によってその場に置かれた人たちが創造的能力を用いることによって御国がもたらされ、よい風味が 付けられるのです。

イエスは又、私たちは世に光であると言われました。私は今まで「光はすべてのものを照らし出しあらわにするものである」と教えてきました。けれども イエスはその後続けて「山の上にある町は隠れる事ができません。」と言われました。ですから町の役目は暗やみにあるものをあらわにすることではなく、失わ れた人たちがその光を見て道を見つけることです。主は町を人々に見えるところにおかれたからです。この光は人を引きつけ引寄せるものです。

旧約と新約の真理

次のシーズンに主が私たちを導こうとしておられることは、旧約の真理と新約の真理が一つになることです。或る事に関して聖書の中で一番最初に書かれ ている記述は、その後のすべてのそのことに関する記述の基礎、基準となり、それを正当化しサポートするものとなります。人の内に働く聖霊に関する最初の記 述は出エジプト記35章30、31節にあります。
「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツアルエルを名ざして召し出し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」
ベツアルエルは神殿を建てるために必要な創造的な知恵と英知を主から与えられました。新約では、聖霊の全きあらわれは力であると言われています。主 が新しい真理を顕されるとき、それがそれ以前の真理を無効にすることは決してありません。実際、前の真理は、次の真理のためのセッティングのようです。ダ イヤモンドの指輪のセッティングがまず用意され、次にその上にダイヤモンドがおかれ、しっかりと固定されるのです。旧約の啓示は宝石がはめられる場所を用 意することであり、それがあるからこそ宝石はしっかりとはめ込まれるのです。旧約は第一段目の真理の基礎を築いています。ですから聖霊の全き顕れは、まず 知恵として顕れねばなりません。そして聖霊の傾注によりその中に力が注がれます。この二つが一つになることが、私たちにリバイバルのチャンスを与えるばか りでなく、改革の知恵を与えるのであると思います。知恵という文脈の中でこそ、天にある型どおりの家庭、ビジネス、地域社会、国家など、すべてのものに形 が与えられ、どのような文化の中にあっても神の力が顕されるのです。

真のリーダーの役目

リーダーは人が与えられている力をすべて発揮できるようにと導く人のことです。もし私が御国の真のリーダーであるならば、 人々は私が与えるものによってより恵まれるはずです。彼らは神の意図された人生へとより近くなるのです。私たちが地の塩としていろいろなシステムに振りか けられるならば、社会全般において人々をより味のあるよい働きをする者に変革してゆくことができるはずです。神がその人のために意図された人生から、敵が 多くの人を迷い出させていますが、私たちはそれと逆に人々を神が意図された人生へと導くのです。
知恵が力と一つとなって物事を本来あるべき姿に引き戻します。興味深いことに、  「塩けを無くす」という言葉は、 「愚か foolish」と同じ言葉なのです。即ち、塩けのない塩は「愚か」ということです。聖書の中でそれは知恵の反義語です。

パンと種の違い

エペソ3:10に「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」とあります。教会は今、神の 知恵をこの世の主権、力に対して示すと書かれているのです。天にあるものを地でもあらわすのです。それは私たちがどのように生きるか、どのように人間関係 を築くか、どのように財産をマネージするか、どのようにパンと種を区別するのかという知恵です。自分の種を食べてしまうのは愚かなことです、種は将来の収 穫のために蒔くべきものだからです。パンと種を与えてくださるのは主です。種を食べるのは愚かなことであると同時に、パンを蒔くのも愚かなことです。

私たち夫婦は常に20%主に献げてきました。献げることが私たちの人生の重要な要素でした。しかし最近、私はこのことに関して学ばされています。と言うのは主が私に「あなたは自分のパンを蒔こうとしている。」と言われたのです。
例話をお話しましょう。私の誕生日は7月ですが、その日私は自分の3人の息子とその妻たち、9人の孫に私がプレゼントを上げるます。父の愛がどのよ うなものであるかを示すチャンスは他にないからです。私の誕生日の一ヶ月ほど前に二人の孫が「おじいちゃんの誕生日に何を買ってもらうの?」という会話を していたのを耳にしました。(笑)私は常日頃、子供や孫、そして友人たちがどのような願いや夢を持っているのかを注意深く聞いているのですが、それはとて も楽しいことです。彼らの顔がどんな時に輝くのか、うれしそうにするのかを注意して見ているのです。どんな香水が好きかとか、どんな料理道具が好きだとか を聞くと、それを心に留めておきます。それが私の人生の喜びの一つです。

私の息子のブライアンはワーシップのミニストリーをしています。今から話すことは本当のことではなく、ただ仮にそうであったらという話です。私がブ ライアンのために特注のギターを注文したいと思ったとします。私はいつも彼の言うことを注意深く聞いていて、彼はどんな色が好きか、どんな木が好きか、サ イズやデザイン、すべてのことを長年の間に書きとめてきました。そしてやっと息子にぴったりの完璧なギターを作れる職人を見つけたとします。そこに行って 「私の誕生日が7月に来るのですが、このようなギターを息子のために作ってくれますか」と頼んだとします。すると彼はその通りのギターを作ってくれまし た。私の誕生日が来て一人ひとりが私からのプレゼントを受け取りました。ブライアンの番になり、彼はギターを見て大喜びをし、私もすごくうれしかったので す。さて、次の日曜日、私は何を見ているでしょうか。彼がそのギターを使って演奏しているかどうかです。でも彼を見ると、そのギターを使っていません。ま あ、何か不都合があったのだろうと自分を納得させます。次の日曜日も、そして次の日曜日も、彼はそのギターを使っていないのです。3週間くらいたって私は 礼拝後ブラリアンに「すばらしいワーシップだったよ・・・ところで、私があげたギターを使っていないようだけど・・・」と聞くと、彼は「お父さん、本当に すばらしいギターをありがとう。誰それがギターを必要としていたから、その人にあげたんだよ。」と言うのです。さて、父としてはどういう気持になるでしょ うか? 父はギターを息子に「蒔くべき種」としてではなく、「息子が 食べるパン」として上げました。父(天の父)の喜びは息子がそのギターを喜んで弾くのを見ることだったのです。

私たち教会は今、持ち物、財産、経済に関して、ある解放を必要としていると私は感じています。信仰があれば財産が増えるという考えは、馬鹿げていま す。でもその誤った考えに対しての反動が大き過ぎると、それも又誤りとなります。今はこの問題に関して教会は混乱していますが、しばらくすればこの世と 天、即ち物質世界と霊的世界とを御国として調和させることができる世代が生まれてくると信じます。私たちが物質世界でどのように物事を扱うかをこの世は じっと観察しています。それを通して私たちは 御国の生活方法をこの世に伝えることができるのです。

知恵の3つの姿

知恵は、基本的に3つの姿で顕されます。箴言の中に繰り返し言われていることなのですが、それは「創造力、優秀さ、誠実さ」です。しかし、私たちが テストされるのはこれらに関してではありません。私たちがどれほど創造的であるか、優秀であるか、誠実かをこの世からテストされるのではなく、この世は私 たちが与えられた「資源、権威、神からの祝福」をどのようにマネージして扱うかを見ているのです。権威を用いる第一の方法は正義、公義を行うことです。聖 書は多くの宝が貧しい者の立っている地の中に埋められていると言っています。しかし不正が彼らにそれを掘らせないのです。権威がそこに行って不正を打ち破 ることによって、彼らにその宝を手に入れさせます。施しや贈り物はそれはそれで大切ですが、与えるだけでは問題は解決しません.不正を打ち破ることで解決 します。神はこのために私たちに権威を与えておられます。
それでは神からの好意、祝福をどのように扱いますか? 「神が何かすばらしいことをしてくださって自分はとてもうれしいのだけれど、高ぶっていると 思われたくないので、あまり人には言わない」ということがあります。私たちが地上で生きる日数には限りがあることを知っていますね。そして私たち個人の 力、肉体的、感情的、霊的、知的能力には限りがあることも知っていますね。それを越えて何かをしようとするならば多くの悲劇が起ります。
それと反対に私たちは無限の資源を天に持っていることもよくご存知ですね。それでは、どうして教会は繰り返し限りのあるものを犠牲にして無限なもの を引き出さないでとっておこうとするのでしょうか。それは人を恐れるので、 無限にあるお金を守るために限りある人間的な財力を使い果たすのです。それが御国でしょうか? それは宗教的な事であり、人はあなたを誉めるでしょう。し かしそれが御国ですべきことしょうか。あなたはまわりにいるすべての人から認められるでしょう。しかしそれが御国でしょうか。神は今改革のためのシフトを 一人ひとりに用意されていますが、真剣にもう一度お金をどのようにとり扱うかについて考え直す必要があります。勿論、惜しみなく人に分け与える寛大さは基 本であり第一義的なことです。私にとってもそうです。しかし主は管理とマネージの点で私たちに教えたいことがあるのです。私たちは単に「気前が良くてやさ しい人」として知られるだけではならないのです。

荒野と約束の地との違い

イスラエルがエジプトを出て約束の地に入るというのはとても分かり易すく、自分の人生に当てはめることができます。ここで私にとって痛いほどはっき り分かったことがあります。それは「毎日の必要を主により頼む」というライフスタイルを、  クリスチャン生活の究極の理想だと必要以上に称賛していたことです。しかし、皆さん、それは荒野での生活の仕方であって、約束の地に入ってからの生活では ありません。私の父は牧師でしたが、ずっとクリスチャンは祭司であることを教えていました。70年代の初めの頃から教会から王たちが社会に出て行き、そこ で奇跡を起すことが強調されて来ました。そして多くの奇跡が起こりました。個々の奇跡だけではなく、社会が変えられて行きました。教育、政治,経済界にい る人々の上に油注ぎが画期的に増加しました。それは自分の召しに対する油注ぎをみんなが自覚したからです。 「王はマーケットプレイスに出て行き、祭司はミニストリーをする」という形でした。強調されたのは王たちが祭司と同じ油注ぎをもってマーケットプレイスで 働くということでした。
しかしこれからの数年にシフトが起り、今までのように祭司が王に霊的分与をするのではなく、王が祭司に霊的分与をするようになるのです。王のやり方 こそが約束の地での生活だからです。教会が受け取る十一献金や捧げものは教会の収入のほんの一部という教会が沢山でてくると思います。これは教会が宝くじ に当たるとかではなくて知恵によるのです。神が与えてくださるものを適切に管理、マネージするところからくるのです。教会が神から受ける恵みを自らの名を 高めるためではなく、主のために知恵をもって管理するかどうか、この世は見ています。神が与えてくださる資源を私たちが恥と思わないで、回りの人々に影響 を与えるために用いて行くのです。神は私たちを「仕える者の心をもって治め、王の心で仕える者」として召しておられるのです。私たちがそのような権威をい ただいたのは、回りの人々がよりよくなるためであるということです。

シバの女王の言葉

シバの女王がソロモン王に会ったとき「主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王として公正と正義を行なわせられるのです。」と言 いました。神はイスラエルを愛したが故にソロモンに知恵を与えました。つまり 神が私たちに途方もない恵みを与えてくださるのは、 神の愛する人々が私たちを通して恵まれるためだということです。もしその恵みを自分だけにとどめておくならば、それは大きな間違いです。自分もそれによっ て恵みを受けないということではありませんが、神の目的は私が出会う人々に力を与えることです。神からの私たちへの資源、恵みはそのためなのです。恵みを 受けた者としてあなたは自分の選ぶ人に王の笏を差し伸べることができます。その人はあなたによって神の訪れを受けるのです。

祝福を願う祈り

この考えが聖書的であるか見てみましょう。
詩編67:1「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」
まさにこれは主に祝福を願う祈りです。それによって私たちは効果的に人々を祝福することができます。私はこれを読んだとき、祝福を願うのは良いことなのだと知って大変うれしく思いました。
私は犠牲的に献げることを信じています。私たち夫婦は超自然的に神様が満たしてくださることも何度か経験しています。そのような奇跡が今も続いてい ることを感謝します。私の大好きな話は、「宣教師の家族が何も食べ物がないのに食卓に空の皿をならべ感謝の祈りを終えたとき、戸を叩く音がし,食べ物を 持ってきた人がそこに立っていた」というものです。これは本当にすごくすばらしいお話だと思います。私は神がそのように必要を満たしてくださる方であるこ とはすばらしいと心から思います。しかし、私は食べ物を持って戸を叩く方の人になりたいのです。

「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださいますように」とありますが、これは「主の臨在の顕れのない祝福はいり ません」ということです。人が私を見たとき、何かこの人には違うものがある、と分かって欲しいのです。私たちの町では、「あなたの教会員がうちの会社に 入ってから何かが変った、彼が来てから会社の空気が変わった」といわれます。2節に「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に 知られるためです。」とあります。これは驚くべき言葉です。「神よ、あなたが私を祝福してくださらなければ、国々はあなたがどういう方であるかを知ること ができません」と言っているのです。私たちが主の祝福をうまく持ち運ぶことに国々の救いがかかっていると言っているのです。
謙遜と思われることが、実は高慢、プライドであることが時としてあります。それは神が与えてくださる祝福を管理しマネージして、人々の心に持ちはこ ぶことを拒否することです。 私たちは荒野のマナではなく、約束の地での収穫によって主に栄光を捧げるべきです。「すべての国々」とあります。私たちは聖書のなかの「すべて all」 ということばに鈍感になっていることがありますが、これはすべての国々が収穫されると言っているのです。そしてそれは 神の啓示、神の好意があなたの上にあるということに直接かかっているのです。

3−6節「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。国民が喜び、また喜び歌います ように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたを ほめたたえますように。地はその産物を出しました。」
地は神のご計画にそって産物を出すことを待ち望んでいるのです。それを抑えているのは、神の民が神の自分に対す る御計画を悟らないからです。ローマ8章にあるように地は神の子が現れるのを待ち望んでうめいています。神の子が正しい場所につき、自分のためにだけ蓄え るのではなく、神が与えてくださるものを回りの人に分け与えて仕え、神の恵みで地に味をつけるのです。あなたの上にある聖霊の麗しさは、まわりにいるすべ ての人の人生をより高めるものです。

7節「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」
この章は祈りから始まりましたが、最後の7節は  驚くべき告白、宣言です。これ以上偉大な約束はありません。「神は私たちを祝福される!地の果て果てがことごとく神を恐れる!  God shall bless us and all end of earth shall fear Him!」と宣言しましょう!
ルビーよりも知恵をあなたは選び取らねばなりません。それは経済的犠牲を伴なうということです。しかし主はその後、知恵を追い求める者にはルビーを も与えると言っておられます。ですから「手放しなさい。そうすれば主は増し加えてくださいます。」これが御国の方法です。祝福された人生は、身体の健康や 創造能力に反映されます。私の頭は雑多な思いに煩わせられることがないので、常に自由に解放されていて、チャレンジを受けたときに創造的に対応することが できるのです。神は私たちのすべての面において祝福を与えてくださる用意があります。レストランに行く時、ビジネスをする時、近所の人と話をする時、彼ら は私たちが彼らを愛し受け入れていることを感じてみんなそばに寄ってくるのです。本当にシンプルで小さなことですが、それも神様の祝福です。それと同じよ うに大きな事柄に関しても私たちは神の祝福によってすばらしい決断をすることが出来ます。これからは一日なりとも神の祝福なしには生きないと決心しようで はありませんか。

祈り


神様、ある人の今までの人生やあなたとの歩みを知らないで、その人を批判し裁いていたことをお赦しください。人々の遜りは喜びましたが、昇進を喜び 祝わなかったことをお赦しください。私たちの心の中にもっと完全な御国の啓示をください。これから祝福が増し加わって行くシーズンに、あなたが与えて下さ るものをどのように管理しマネージすればよいのかを悟る知恵をください。イエスのすばらし御名によって祈ります。(終り)



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