2014年4月29日火曜日

鳩のような聖霊 - ビル・ジョンソン

ビル・ジョンソン

イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときのことを、マルコ福音書は「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』」と記していますが、そこには私たちが目を留めるべきことが表されています。

私たちはしばしば、天が開くようにと祈ります。それはよい祈りです。イザヤ64:1にあるように「天を引き裂いて降りて来てください」と祈ります。私たちは主に餓え渇いているからです。私たちは町や国の上の天が開かれるように祈ります。それは大切な祈りです。

私たちは往々にして、何を自分はすでに持っているのか、何をすでに与えられているのかを知らずに暮らしていて、どうかそれを下さいと神に祈ります。しかし、すでに持っているものを祈り求めるとき、その祈りが答えられるときの喜びを私たちは得ることができません。なぜならばその祈りはすでに答えられているからです。

私たちの祈りは、それが答えられてブレークスルーが起こることによって、クリスチャン生活がいつも喜びにあふれるようにと、 神がデザインされたものです。イエスは「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。...求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。

もしブレークスルーがなくて喜びが得られないとき、私たちは祈りを一生懸命することから喜びを得なければならなくなります。祈りから喜びを得ようとし始めるとき、私たちは実体ではなく形、形式を尊ぶことになります。ここから「宗教」が形成され始めるのです。ここでいう宗教とは、力のない形式のことです。私たちは 満足感、充足感を様々な宗教的活動を長時間することから得ようとし、それによって自分は主を愛し主に仕えていると思い込むのです。
しかし、イエスが意図されたのは、「わたしたちが父にお願いすれば 、それによってあなたの喜びが満ち満ちるように、父はそれをかなえてくださる」ということです。喜びは途方もなく偉大な天の宝であり、そのすばらしさは私たちには到底理解できないほどです。父がその喜びをイエスが十字架の苦しみに耐えることへの報酬として取っておかれたように、極めて貴重で希少価値のあるものです。「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び...」とあります。喜びは苦しみに対する 報酬で、イエスの従順に対して父が与えたものであり、極めて高い価値のあるものです。聖書には、あなたが祈りの結果として得るブレークスルーこそが、あなたに満ち満ちた喜びを与える絶えざる源であると言っているのです。

問題は、私たちがすでに持っているものを祈り求め続けていることです。 すでに得ていることを知らずに、そのことを祈り続けるならば、私たちは決してブレークスルーを経験することが出来ず、魂の高揚も喜びも経験できないのです。これは些細な問題ではありません。「主よ、今日私たちとどうか共にいてください。」という祈りを私たちは何回するでしょうか。主は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを見捨てない」と言われたではありませんか。ですから、主はこの私たちの祈りに答えることはできないのです。実際、私たちがしているのは、主の約束に対して挑戦していることになるのです。これは問題です。私たちの心と思いが、神が宣言されたことに対して戦いを挑んでいるのです。主は「わたしは決してあなたを離れず、見捨てない」と言っておられるからです。

主がバプテスマを受けて水からあがられたとき、天が裂けたと書かれています。これは原語では神が天をバリバリと切り裂いたという意味です。そして聖霊が降りてこられました。イザヤ64は「天を裂いて降りてきてください!」と言っています。イエスのバプテスマの時起こったことは、天が切り裂かれて聖霊が降りて来て、そこに開かれた天が造られたのです。ほとんどのクリスチャンにとって「閉ざされた天」は、その人の耳と耳との間にあるのです。人が自分の思考パターンで信じる通りに物事を起こすことを、神は暗やみの権力に許可しているのです。聖霊はあなたの中に住んでおられますね。聖書には「父は私たちの内にいる聖霊を妬むほど愛しておられる」とあります。父は天を切り裂いてくださいました。天の父とあなたの内なる聖霊との交わりを阻止するのは一体何でしょうか。どのような領域の悪魔の力もその交わりを切り離すほどの力はありません。ですからあなたはすでに開かれた天の下で生きているのです。

私たちは都市の上の天が開かれるのを願っています。しかし私たちが忠実に私たちの上に開かれた天の下で信仰を実践し権威をもって歩むならば、私の上に開かれた天は広がり続けるのです。あなたが部屋に入っていくならば、部屋全体の霊的空気が変るのです。私は「自分は神の息子だ、娘だ」と言って自分の事ばかり考えている信者を作りたいのではありません。聖霊はすべて信じる者の内におられます。しかしながら聖霊はすべての信者の上にとどまっているのではありません。ヨハネ福音者ではイエスがバプテスマを受けられた時「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私はみました。」と書かれています。

これは非常に意味深い記述です。鳩というのはとても繊細であり、少しでも驚かせると飛び立っていきます。もし私の肩に鳩がとまっていたとして、それが飛び立たないようにしたいならば、私は階段を降りるときどのようにするでしょうか。つねに鳩のことを考えながら細心の注意を払って降ります。聖霊はすべての信者の中に永遠におられますが、すべての信者の上にいつもとどまってはおられません。信者の目標は、つねに聖霊の臨在をもてなし、自分の上にとどまっていただくことであり、行くところすべての霊的空気を変えていくことを学ぶことです。私たちの上に聖霊がとどまられる場所を設けることは可能です。それによってあなたが入っていくだけでその場所の霊的空気をシフトさせることができるのです。私はこれをもう何年間も試しています。あなたが「自分はそれを持っている」とはっきる自覚し認識するならば、あなたは現実にそれを顕していくことが可能となるのです。

福音のミニストリーとは、単に言葉だけでするものではなく、地上に主の臨在を解き放つことなのです。ある時イエスが道を歩いておられたとき、イエ スのされた奇跡を見て興奮した群衆が回りに押し寄せてきました。するとイエスは立ち止まり「わたしにふれたのは誰か」と聞かれました。そして振り返って長 血の女を見られました。病気を直すためにすべての財産を失った女でした。彼女はただイエスの衣のすそに触れただけでした。 聖霊の臨在は単なる論理とか教義ではなく、神というお方の実体なのです。聖霊はイエスの上にとどまっておられたので、女が衣のすそに触れたときに、イエス がもっておられた聖霊の実体が流れてきて彼女はそれを受けることが出来たのです。このように聖霊の臨在が自分の上にあることをはっきり自覚し、誰かがそれ を求めた時にそれが流れていくことがわかるという敏感さをもって生きるとは、どのようなことでしょうか。神は御霊をイエスの上に無限に与えられていまし た。ですから誰かが持っていったのでイエスの上の聖霊の臨在がもうなくなった、ということではありません。イエスは常にご自分の上にある聖霊の臨在をはっ きりと意識しておられました。イエスと御父との交わりを司るのが聖霊の役目だったからです。イエスは父のすることだけをし、話されることだけを話したので すから、聖霊につねに頼っておられたのです。

ペテロとヨハネは神殿に行くときに、生まれつき足のきかない男を見ました。ペテロは「私は金銀はないが、私にあるものをあげよう。」と言いました。 これは非常に意味深い言葉です。ペテロは「あなたのために祈りましょう。」と言ったのではありません。「私はあなたに私が所有しているものをあげよう。」 と言ったのです。私たちが、もし自分が所有しているものを自覚せずに生きるならば、神が下さっている銀行口座に見合った小切手を切ることはできません。わ ずかな金額の小切手というミニストリーをしてしまうのです。お金をことではありません。私たちは自分がどれほど大きなものを持っているかを自覚しないの で、ミニストリーにおいて小さなリスクしかとれないのです。神の啓示が皆さんの上に注がれて、神が私たちにどれほど大きなものをすでに下さっているか、分 与していてくださっているかを、もっと認識されることを願います。それによってすでに持っているものではなく、私たちにないもの、足らないものを祈り求め ることができるようになります。

ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って彼の右手を取って立たせました。何が起こったのでしょうか。イエスは神の 御国はあなたがたのただ中にあると言われました。イエスは「わたしが話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスは父の言われる ことだけを話されました。ですからイエスに端を発することばではないのです。ここで思い出していただきたいのですが、イエスはご自分を無にされたので、ご 自分では何もできず、すべてを父から受けとらねばなりませんでした。人間イエスとしては何も与える力はなかったのです。主は私たちのためのモデルとなって くださったのです。

イエスは神のことばが肉体となった方であり、イエスが話されるときにはすべてのことばは霊となりました。ロマ書でパウロは、「神の国は飲み食いのこ とではなく、聖霊にある義と平和と喜び(righteousness , peace and joy in the Holy Spirit)である」と言っています。神の国は聖霊のうちにあるのです。ことばが霊になるとき、神の統治、支配の領域が人間の上に解き放たれるのです。 父の言われていることを私たちが言う時に、私たちは神の臨在をこの世に解き放ち流しているのです。声が大きいとか内容がいいとかとは関係ありません。その ことばの源が鍵なのです。父の御心からのことばを私たちが話すときに、聖霊というお方が解き放たれます。聖霊の臨在の中には御国の統治、支配が含有されて いるのです。ですから「悔い改めなさい。神の御国が近づいた。」と主が言われるとき、主は「わたしが話すとき、そのことばが持つ実体があなたの上に解き放 たれて、あなたの回りの環境が変えられ、あなたの祈りの答えは近づいた(at hand)」と言っておられるのです。

イエスに長血の女が触れたとき、力が主から出て女の身体を変えたのです。ペテロは自分の持っているものを知っていたので「私が持っているものを主イ エスの名によってあなたにあげよう」と言ったのです。これは初代教会において非常に顕著なことであったので、民衆は弟子たちがどこに行くのかをいつも知ろ うとしました。 ペテロが祈りに行く時に通る道に病人を連れてきて、ペテロの影がかかるようにしました。影そのものはなんの実体もないものです。影が癒したのではなく、影 がかかるくらいにペテロのそばに近寄ることによって癒されたのです。民衆は教義を教えられなくても、神の人が歩くときには回りの環境、状況、空気が変ると いうことを観察して知ったのです。

陰鬱なクリスチャンが部屋に入ってきても、その影で人が癒されることがないのを私たちは経験で知っています。それは落ち込んでいる人は自分の内側に 向いているからです。内側を向いている人は死海になってしまうのです。水は死海に入ってきますが、死海から出て行くものは何もありません。そこにあるすべ てのものは死んでしまいます。同じことが私たちにも起こるのです。自分の心配、失望、落胆等にずっと捕われ続け、聖書の真理や解決法を自分の人生に適用し ないならば、自分のことだけしか考えない自己中心に陥るのです。あなたは自分を駄目な人間だと遜っているつもりかもしれませんが、自分のことだけを考えて いるという点で自己中心に変わりないのです。私は何時間も何時間も祈っていたことがありましたが、それはみんな自分のことを祈っていたのです。私は「神 よ、私はなんと情けない人間なのでしょうか...」といつも告白していました。私は自分が~でない、ということに心を捕われていて、神がどういうお方であ るかに心を向けていなかったのです。そのように自分に捕われていることは、自分がこの世で一番偉いのだと威張って歩く自己中心と実は同じなのです。一方の 自己中心はすぐに目につきますが、もう一方は教会の中に知らないうちに毎日忍び込んでいるのです。偽りの遜りは決してあなたを目的地に導きはしません。私 が恐れや心配とかで自分のことにだけ捕われている時、私は内に向かっていて、自分から放つべき聖霊の流れを止めているのです。聖霊の流れは愛によって流れ 出るからです。

例えば、私が集会である人に預言のミニストリーするとします。私はその人に惹き付けられるような感覚を感じ始めます。それは神から出た愛情です。人 間的なものではありません。もしその時私が自分の恐れや心配に心を捕われているとしたらどうでしょうか。私の中から神の臨在が流れ出して回りの環境を変え て行くべきであるのに、それはただ内側で自分を慰めるためにだけ使われてしまうのです。私は死海になってしまうのです。

イエスは3年半の間におびただしい数の人々を癒し解放されたので世界もそれを書かれた書物を入れることができないというのは、私たちには途方もない ことのように思えます。イエスのインパクトはそれほどおびただしく、全部を詳細に記録することはできなかったのです。それは一人の人の中で3年半の間、聖 霊が消されることがなかった結果なのです。神の臨在が一人の人の上に3年半とどまった結果なのです。

その事実の大切さをペテロはイエスから学び、彼も鳩のような聖霊を歓迎し自分の上にとどまっていただくようになったのです。クリスチャンの内には聖 霊がいて下さり、決して離れないと約束してくださっています。しかしそれとは別に私たちの上にとどまる聖霊の臨在というものがあるのです。それは私たちが どれほど主と時間を過ごしているか、どれほど自分を召しのために明け渡しているかということによって決まるのです。ペテロやパウロがそのよい例です。

私は彼らに嫉妬をおぼえます。あなたはいかがでしょうか。このようなことが私にも可能であると知るとき、私の心はうめくのです。イエスは「わたしを 信じる者は、わたしのわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。それを聞いてあな たは「そんなことはあり得ない」と無視するか、それとも狂ったようにそれを求めるかのどちらかです。私は神に「どうかそのようにあなたの臨在を放ち流して いく者にしてください」と気違いのように求めたいのです。(終)