全てのクリスチャンの内には「不可能な事」に対する飢え渇きがあるのが当然です。なぜなら、私達の内には不可能とされるものがイエスの御名の前に「可能になる」、このような奇跡を要求する霊的DNAが組み込まれているからです。
奇蹟が起こらないのは神の御心ではないのです。それは私達の「思い」に問題があり、私達は変革 - 思いの一新 - される必要があるのです。そしてこの変革は、必死に追い求める人に働いてくださる、聖霊の働きによってのみ可能となるものなのです。
もし私達が、イエスは病人を癒すことも、悪霊に悩まされている人を解放することも、そして死人を生き返らせることもできなかった、と信じるとすれば、それはイエスがご自分について語られていることを無視することであり、何よりもそれ以上に、イエスが人として生きるために自らを制限の下に置いてくださったその目的を見失うことになります。
イエスはご自身について、「子は何もすることはできない。」と語られました。(ヨハネ五・一九)
イエスは百パーセント神であられたにもかかわらず、私達人間が向き合うのと同じ限界の中で生きることを選ばれたのです。つまり、イエスは人としては超自然的な能力は有していなかったと言えます。イエスはそのことを何度も話されました。イエスはその点で、「不可能に立ち向かう」という働きにおいて、私達の模範となられたのです。イエスは「神」としてではなく、「神と正しい関係にある人」として、奇蹟としるしと不思議を行なわれたのです。もしイエスが神として奇蹟を行なわれたのなら、その働きは私達には到底不可能ですが、イエスが人として奇蹟を行なわれたのであれば、私達には彼の生き方を追求していく責任があります。この簡単な真理を再認識した時に、私達の全てが変革され、教会の中におけるイエスのミニストリーを完全に回復することが可能となるのです。
イエスの人間としての特徴は何でしょうか。
- イエスは、彼を父から引き離す、いかなる罪も犯されませんでした。
- イエスは、ご自分を通して働かれる聖霊の力に完全に拠り頼んでいました。
私達の人間としての特徴は何でしょうか。
- 私達は、イエスの血潮によって聖められた罪人です。イエスはご自身を犠牲にすることによって、彼を信じる全ての者のために、罪の力と影響力に完全に打ち勝ちました。今私達を父から引き離すものは何もありません。
- 私達は、聖霊に拠り頼んで生きることを、どれほど喜んで自分の生き方とできるでしょうか。
正に今この時こそ、私達のビジョンを変革する時です。もし預言者に「あなたのビジョンは小さすぎる」と語られたら、多くの場合人は自分の期待している数を増やすことを考え始めます。例えば十人の救いを祈っている人は、それを百人に拡げるでしょう。もし町のために祈っているとするなら、それを国々に拡げるでしょう。しかし私達の反応がこのようなものである限り、これからも同じ間違いを繰り返すことになります。数が増えることそのものは、神の視野から見てそれがビジョンの拡大であるとは必ずしも言えません。なぜならビジョンは自分のアイデンティティーと目的を知ってこそ誕生するべきものだからです。自己像の変革を通してのみ、神にある目標を設定することができるのです。そしてそれは神の啓示から全てが出発し、私達の内に変革を生み出すものでなければなりません。
信仰が要求されない信仰姿勢を抱き続けることほど危険なことはありません。それは神のご性質と、全ての御言葉が宣言していることに反するものです。エペソ三章二十節で神は、『私達が願うところ、思うところの全てを越えて豊かに施すことができる方』とあります。その神が約束し、計画された全てのことは、今私達の知性と期待にチャレンジを与えているのです。それに対し、『(エルサレム)彼女は自分の末路を思わなかった。それで、驚くほど落ちぶれて・・・』とあるように、神の約束を忘れ去った結果はどんなに悲惨なものでしょう。私達は、神にとってふさわしい者とされているのに、自分はふさわしくないとの思いで凝り固まってしまい、また、神には「おできになる」のにそれ以上に、自分の「できない」ことに大きく捕らわれてしまっているのです。神は、恐れるギデオンを勇士と呼び、揺れ動くペテロを岩と呼んでくださったと同様に、私達をこの地におけるご自身の愛する子の一人として召し出してくださったのです。それは私達にとってどんな意味を持つのでしょうか。
「天が地に侵入するとき」ビルジョンソン著 © 2003
Destiny Image Publishers (167 Walnut Bottom Road, Shippensburg, PA, 17257 www.destinyimage.com)の許可を得て記事掲載しています。日本語版Onfire Japan出版 www.onfire.jp