2009年3月20日金曜日

愛するものよ、私の名を呼んで欲しい、、、

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(詩篇 145:18 )

この御言葉をとても分かりやすく説明しているのを耳にした。あるアメリカのクイズ番組で、クイズの挑戦者を、番組の司会者が、会場に来ている観客の中から選出するというものがあるらしい。司会者に名前を呼ばれたその人は、次のクイズの挑戦者として、ステージの上に招かれ、その後の番組の一部始終に参加し、その様子が放送されるというのだ。

司会者が独特の口調で会場の期待感を大袈裟に膨らませ、場内の音楽も緊迫感溢れる中、選び出した会場の観客の名前を高らかに呼び上げる。その後の情景はお察しの通り。選ばれたその人は叫び声と共に飛び上がり、顔を紅潮させながら、中には涙を流してその瞬間を迎える。クイズに答えて番組に参加するのはこれから先の話しなのだが、まずここまでが、この番組の大きな見所の一つらしい。

「私の名前が、呼び上げられますように!」会場の全員がその思いで、その瞬間を待ち望む。ある者は椅子から半分身を乗り出して、ある者は息をするのも忘れて、ある者は両手を合わせて祈っている。「どうか、私の名前が呼ばれますように!!!」

天のお父さんも、私達が地上で父の御名を呼び上げる瞬間を、同じように待っておられる。神様は私達に自由意志を与えられた。本物の愛の関係を私達と結ぶために、私達が自分の意志で神を愛する選択を選べるように。御父は決して無理強いをしない。私達を創造された時、神を愛し、必ず神に従うよう私達人間をインプットする事も、神にとっては可能だったはず。でも、神は敢えて私達に、選択肢を与えられた。本物の愛の関係を、私達と結ぶために。

だからこそ、私達が望んでもいないのに、突然雷のように天から降って湧いてきて、私達の置かれた状況に介入されたり、無理矢理私達の心の中に割り行って来られたりはしない。ただ、私達が神の名を呼び求めるのを、ずーっとずっと、待っておられるのである。時に自分の手で創り上げた大切な子供達が、罪の中で自分を苦しめ、互いに痛め合っている姿を涙を流しながら、それでも、じーっと見守っておられるのである。

私達は時に、敵によってとても歪まされた「偽の神様像」を信じ込まされている。

「神様は、こんな罪ばかり犯して、清くもなく、正しくもない自分の事にはうんざりされているはず。」

「私達の祈りなんて、神は聞いて下さりはしない。」

「世の中がこんなに崩壊しているのは、神からの天罰だ。人間の犯して来た罪のせいだ。」

「毎日祈って、毎日聖書を読んで、まじめに一生懸命頑張ったら、もしかしたら神は私の祈りにも耳を傾けて下さるかもしれない。」

こんな嘘を信じてしまっているなら、そんな時こそ、天のお父さんの本当の心を知るための、新しい啓示が必要な時かもしれない。思いが新しくされる必要があるのかもしれない。

お父さんは待っておられる。天の腰掛け椅子から、半分腰を浮かして、その名が呼び上げられる瞬間を。私達が父の名を呼び求めるその時を。

「今度こそ、私の名を呼んで欲しい。今すぐそこに行って、あなたをその苦しみから救い出す事ができるのに。」

「私の御名によって求めなさい。天の倉の扉を開いて、今私がその祝福をあなたに降り注ごう。あなたの必要を遥かに越えた、余りある恵みを降り注ごう。」

「私はあなたを見捨てない。あなたを離れることはない。私の心のただ中に、あなたがいる。」

「あなたが、愛おしくてたまらない。」